当ブログ内には、「亜麻」で検索すると…。

「SEARCH TERMS (46 hits) : 亜麻」
46の記事があるようですが、「フラックス」とか「アマ」で書いた記事はこぼれているかもしれません。

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北海道博物館には「亜麻」からつくった糸の見本。というものがありました。
かなり貴重なものになるでしょう。

見た目には「麻紐」のような繊維もあるようですが、当時は軍事的な目的もあり北海道各地で栽培されていた亜麻。
旭川でも国道の左右一面に亜麻の花が咲いていた時期もあったようです。

「上川製線所」という亜麻糸の生産工場が出来、近隣の町村でもたくさん栽培されていたようです。
たしか、美瑛町の山のような収穫期の写真も過去に書いたかと…。

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こちらは、大正期の「でんぷん」の商品マーク。美しいですね~。

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このジャガイモから作られる「でんぷん」も、当時は大きな利益を得られることから各地に工場が作られたようですが、現存するものはわずかですね。

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シーベリー

@Wikipedia

〇〇ベリー。英語でベリー (berry)というのは、小さな食用にもなる多肉果実の総称です。
ラズベリー、ブルーベリー、グズベリー…。そう言えばイチゴはストロベリーでしたね。

さて、この「シーベリー」ですが、学名はヒッポファエ・ラムノイデス(Hippophae rhamnoides L.)。原産地はロシア、ドイツ、北欧、中国…。中国ではサジー、ロシアではオビルピーハと呼ばれ、それらを総称して日本ではシーベリーと呼ばれているそうです。

グミ科グミ属で、樹高2~4mの雌雄異株植物。ラムノイデス種の他に5種、ラムノイデス種は8亜種あるそうです。

収穫は8~9月。黄・橙~赤色の実。青果物中トップクラスのビタミンCとEが含まれ、酸味が強く味はミカンジュースに似ている。

過去記事に、「SEARCH TERMS (9 hits) : 夢民村」があります。
夢民村には「シーベリーパフェ」があります。たぶん夏になれば食べることが出来ると思います。シャキッとした食感と爽やかな酸味を是非…。

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ちなみにシーベリーの苗が、「果樹苗専門店の通販 花ひろばオンライン本店」にありましたが、チョイと高い。けど欲しい。。。(笑)

旭川外国樹種見本林

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旭川市民の多くは、見本林=三浦綾子=氷点というイメージなのかなぁ~と思います。

そもそも「旭川外国樹種見本林」ですが、文字通り外国種の樹木が北海道で育つかを観察するために、明治31年(1898)に約30種の樹木を植栽された事に始まります。現在は18ヘクタールの敷地に52種、なんと約6,000本の樹木が育てられているそうです。

石狩川の支流である美瑛川に隣接し、春にはエゾエンゴサクやカタクリ、エゾリスや野鳥も数多く生息し多くの市民に親しまれています。

三浦綾子の代表作「氷点」の重要な舞台でもあり、1998年(平成10年)6月13日に「三浦綾子記念文学館」が開館し、三浦綾子の作品や遺品などが数多く展示されています。

たしか、玉置浩二も「カリント工場の煙突の上に」だったか、この美瑛川の畔で撮った映像があったかと…。

使用可能という事なので、「北海道森林管理局のHP」「外国樹種見本林」から年表(抜粋)を…。

1854年(安政3年)  七重村に幕府が官園(薬園)を開設し、スギ、マツ、クワ、コウゾ、ウルシ及び薬草の栽培を開始。

1869年(明治2年)7月 明治政府が開拓使を設置し、蝦夷を北海道と改称し、北海道の本格的な開拓が開始。

1871年(明治4年)4月 黒田清隆開拓使次官が、北海道の開拓や農業経営等の模範をアメリカに求め、米国農務省長官(農務局長)ホーレス・ケプロン(Horace Kapron) を開拓使顧問として招聘。

1871年(明治4年)9月 ケプロンの建言により東京府に官園を設置し、アメリカから輸入した作物・果樹・樹木・家畜の日本への適応試験。

1872年(明治5年)3月 ケプロンの招きにより園芸技師としてルイス・ベーマー(Louis Bomer)が来日。

東京官園でベーマーにより養成された洋種リンゴ75種、西洋ナシ、ブドウ、スモモ、アンズ、モモ、サクランボ、ラズベリー等を七重開墾場(官園)に移植。

1875年(明治8年)9月 アメリカ・ニューヨークの種子商ピーター・ヘンダーソン社から北海道の植物の入手要請があり、ベーマーが交換条件としてアメリカ及びヨーロッパの樹木を要求。

1876年(明治9年) 七重勧業試験場(官園)から札幌官園へヒノキ、スギ、マツを移植、翌年にもスギ、ヒノキ、ウルシを移植。

1876年(明治9年)7月 米国マサチューセッツ農科大学からウイリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)が来日、札幌農学校の教頭として就任。

1877年(明治10年)2月 開拓使がクラークに対し、森林教育の推進など14項目を諮問し、マサチュセッツ州のアーノルド樹木園を紹介し、樹木園設置の必要性を説く。

1877年(明治10年) 札幌官園が札幌勧業試験場に改称され、ケプロンの勧告により外国産樹種が輸入され、同年10月、米国産林木の種子を札幌勧業試験場に播き、外国産樹種の育苗が盛んに試みられる。

1880年(明治13年) 札幌神社(現在の北海道神宮)外苑に札幌円山育種園(養樹園)を開設。

1889年(明治22年) 上川郡神楽村(現 旭川市神楽地区)の約1万町歩が御料地に編入。

1892年(明治25年) 神楽村に御料局上川試験場が設置され、苗圃を開設し国産のアカエゾマツ、カラマツ、カバ類を播種。

1895年(明治28年) 神楽村に御料局札幌支庁上川出張所が設置され、上川郡の御料地を管轄。

1898年(明治31年) 札幌円山の御料養樹園に植栽されていた外国産トウヒなど7種5,400本を御料上川試験場内美瑛川沿岸防風林に移植。

1902年(明治35年) ヨーロッパトウヒ植栽。(0.46ha)。

1926年(大正15年)郷土樹種のトドマツ(1.10ha)、1927年(昭和2年)トドマツ(0.33ha)、ヨーロッパトウヒ(1.57ha)、チョウセンカラマツ(0.33ha)植栽。

1928年(昭和3年) チョウセンモミ、郷土樹種のヤチダモ、オニグルミ植栽。(0.26ha)

1933年(昭和8年) グラウカトウヒ植栽。(0.22ha)

1936年(昭和11年) ストローブマツ、ヨーロッパアカマツ、ヨーロッパクロマツ、バンクシアナマツ、ムラヤナマツ、カラマツ植栽(1.56ha)。

1943年(昭和18年) トドマツ植栽。(0.12ha)

1947年(昭和22年) 林政統一により農林省所管となる。アカエゾマツ植栽。(0.11ha)

1949年(昭和24年) トドマツ(ストローブマツの混植あり)、アカエゾマツ植栽。(0.36ha)

1950年(昭和25年) 美瑛川右岸堤防作設。

1954年(昭和29年) 洞爺丸台風によりストローブマツ、ヨーロッパアカマツなど約400本の風倒被害が発生。

1956年(昭和31年) 5月の台風でトドマツなど約100本の風倒被害が発生。

1959年(昭和34年) ウラジロモミ、モミ、スギ、ヨーロッパトウヒ、改良ポプラ、ウダイカンバ、シラカンバ植栽。(1.22ha)

1964年(昭和39年) ヨーロッパカラマツ、グイマツ、チョウセンカラマツ、ダグラスファー、ノルドマンモミ、コンコールモミ、ウラジロモミ、シラベ、ヤツガタケトウヒ、プリカータネズコ、改良ポプラ(12系統)、ハンノキ、ニセアカシア植栽。(0.433ha)

1965年(昭和40年) 三浦綾子氏による見本林が舞台の小説「氷点」が朝日新聞の懸賞小説に入選し、見本林が全国的に有名になる。

1968年(昭和43年) 明治100年事業の一環として堤防内は樹木園・庭園として整備し、堤防外は樹木地とする整備計画を作成。

1969年(昭和44年) 巣箱の設置、民地との境界にフェンス設置を行い、堤防外地域に歩道の整備などを行う。

1970年(昭和45年) 全国の国有林に自然休養林を設置することとなり、見本林を含む嵐山・神居自然休養林が9月10日に指定。

1974年(昭和49年) 自然休養林整備として、川沿いにサクラ、ナナカマドなどを植栽、歩道・標識・ベンチなどを整備。ストローブマツ、ヨーロッパカラマツ、カツラ植栽。(0.86ha)

1975年(昭和50年) バンクシアナマツ、ムラヤナマツ、ウラジロモミ、アオモリトドマツ、シラベ、ヤツガタケトウヒ、ポプリアカンバ、パルストリスナラ植栽。(0.09ha)

1976年(昭和51年) モンチョコラマツ、レジノーサマツ、リキダマツ、ノービリスモミ、コントルタマツ、ヨーロッパナナカマド植栽。(0.35ha)

1977年(昭和52年) ヨーロッパクロマツ、ノービリスモミ、グラウカトウヒ、ポプリフォリアカンバ植栽。(0.24ha)

1979年(昭和54年) ポプリフォリアカンバ植栽。(0.10ha)

1980年(昭和55年) ダフリカカラマツ、グイマツ×カラマツ(F1)植栽。(0.02ha)

1981年(昭和56年) ポンテローザマツ、ブンゲンストウヒ、ザンギネミズキ植栽。(0.29ha)

1982年(昭和57年) 旭川市と姉妹都市である米国イリノイ州・ブルーミントン及びノーマル市との姉妹都市提携20周年を記念して「ブルーミントン・ノーマルの森」を造成する際、レジノーサマツ、バンクシアナマツ、サトウカエデ、ルブラムカエデ、サカリヌムカエデ1220本植栽。(0.34ha)

1983年(昭和58年) 昭和47年に日中国交回復を記念して中国から送られ、道内で養成されたチョウセンカラマツ、ホクシカラマツ、モンゴリアカマツ植栽。(0.13ha)

1985年(昭和60年) 国際森林年記念植樹行事として、ヨーロッパカラマツ、改良ドロノキ植樹。 (0.08ha)

1997年(平成9年)8月 旭川市が選定した「旭川八景」の一つに外国樹種見本林が選ばれる。

1998年(平成10年)6月 見本林内に「三浦綾子記念文学館」が開館。スカーレットオーク植栽。(0.036ha)

2004年(平成16年)9月 台風18号によりトドマツ、ヨーロッパトウヒなど約1000本(見本林内総本数の約16%)の風倒被害が発生。

2005年(平成17年)9月 台風被害復旧のため、旭川市民参加による「外国樹種見本林復活の集い2005」が開催、ヨーロッパトウヒ、トドマツなど950本植栽。

2006年(平成18年)9月 「外国樹種見本林復活の集い2006」が開催されストローブマツ、トドマツなど約800本植栽。

2007年(平成19年)9月 「外国樹種見本林復活の集い2007」が開催されヨーロッパトウヒのほかサクラ、ナナカマド約200本が植栽。風倒跡地の復旧終了。

それぞれの樹種についても、、「北海道森林管理局のHP」に詳しい記載があります。

個人的に旭川市民としてはもちろんですが、全国的にもあらためて貴重な場所なのだと認識し直しました。
もっと見本林と触れ合いたい…。とりあえずエゾリスに遭いに行こうかな?(笑)



岩見沢市観光協会の「ラーメン」には、地域イチオシの噂がある「宇宙軒」を含め4件ありました。

「らい久」は…。
岩見沢市民なら誰でも知っている、老若男女問わず根強い人気を誇るラーメン店です。かつて、まだ空知が炭鉱で栄えていた時代から、変わらぬ味を提供し続けるらい久のラーメンは、懐かしくもあり、その懐かしさが逆に新鮮でもあります。
特に人気なのが野菜ラーメン。山盛りのもやしにビックリ、あっさりスープの美味さにビックリすること間違いなしです。

【住  所】岩見沢市5条西2丁目2
【電  話】0126-22-2864
【営業時間】10:30~15:30
【定 休 日】なし
【駐 車 場】なし

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美味かろうが不味かろうが、地域の老舗ラーメン店は食べておきたい。
「味は最高 ボリューム満点 北海道一のラーメン」
上川町の日本一よりは控えめですが…。(笑)

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店に一歩入ると、そこには昭和がありました。
「STVテレビで紹介されました。昭和63年」とかね。

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ベースが650円。
旭川では700円時代になっていますので、とってもリーズナボーに感じます。

何気に黄色い紙に書いてある…。

お客様各位
野菜(もやし)等
あまり食べられない方は、
少なめとお申し付け下さい。

…の意味が気になりましたが、こういう事です。

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まずはラー油なのか真っ赤な見た目に驚かせられましたが、これが食べてみると辛くない。
とは言うもの、食べ終わる頃には結構汗をかきました。
※同僚は食べているときから汗が止まらない…。

ま、ラー油だとしても大さじ一杯程度はスープの表面に浮かんでいるのでしょうから、ギョウザを食べる時に垂らす量と比較するとすごく多い?

モヤシが多いせいか麺の減りと言いますか、なかなか食べ終わりません。
最後は意地になって完食しましたが、看板に偽り無し!

帰宅後ネット情報では麺は250gとか…。
確か普通は180g程度。。。

後客の常連さんっぽいオジサンは、塩の大盛り。
私が次回注文する時は、塩!モヤシ少しでチャーシュー1枚…って感じかな?

あ、お味はそれこそ老舗って感じの味噌でした。
特に奇をてらうようなことも無く、ラーメンを作り続けて数十年。

平成20年3月8日より
50円値上げさせていただきます。

そんな張り紙もありました。

安倍首相が訪米しトランプ新大統領と初会談をしてきましたが、インフラ投資としてアメリカに日本の新幹線を作るとか作らないとか…。

今回はその真逆で、当時鉄道の無かった北海道。
アメリカから蒸気機関車などを輸入したころのお話です。

 北海道博物館の「義經号」モデル

明治2年(1869)7月、明治政府は開拓使を設置。8月には蝦夷地を北海道と改称します。

黒田清隆は、明治3年(1870)5月に開拓次官となり、明治7年(1874)8月には、第三代開拓使長官となります。賛否両論ありますが、北海道の開拓の基礎を築いた功労者と言えます。

その黒田は、明治4年(1871)1月、留学生7名とともに渡米し駐米公使の森有礼(30歳)とともにグラント大統領(49歳)に開拓使の顧問となる人物の招聘を依頼し、当時の米国農務省長官ホーレス・ケプロン(67歳)との顧問契約を成立させました。

ケプロンは明治4年(1871))8月25日に、秘書エルドリッジ・科学技術師アンチセル・土木技師ワ―フィールドを伴い最初の開拓使お雇い外国人として来日します。アンチセル・ワーフィールドは開拓予備調査をし、ケプロン自身も3回にわたり道内各地の視察・調査をし「ケプロン報告書」と離日の際には「報文要略」を開拓使に提出しています。

その中に、幌内川上流には後の幌内炭鉱となる埋蔵量が多く有望な炭山があることが判明とあり、後に地質・測量・鉱山開発のアメリカ人技師ベンジャミン・スミス・ライマンを招き、炭田の開発計画を立案させることになります。

ライマンは明治6年(1873)の来日から約6年半の滞日中に、北海道各地の地質調査や日本各地で石炭・石油・地質調査にあたります。ライマンの計画では、幌内炭鉱の石炭の搬出を幌内から現在の幌向付近まで鉄道を敷設し、そこからは石狩川を利用し川舟により小樽港へ運び船に積み替えるというものでした。

ケプロンは幌内から室蘭間に鉄道を敷設し、室蘭港からの石炭積出しを計画しましたが、開拓使はライマンの計画は経費が少なくて済むということから、明治11年(1878)3月に承認します。同年、鉄道敷設・土木顧問としてジョセフ・クロフォードが来日し測量を開始しますが、ライマン案では敷設地には湿地が多く石狩川の冬季結氷などもあり、クロフォードは幌内太から小樽に鉄道を延長し、小樽港から石炭を積み出すよう提案します。年間を通じての安定輸送や桟橋から直接船積みができ、川舟へ積替える手間や石炭の減耗も防げることもあり、開拓使長官の黒田清隆は、幌内-小樽間の鉄道敷設を承認します。

鉄道開業にあたり、アメリカ・ピッツバーグのH.K.ポーター社から蒸気機関車2両、ハーラン・アンド・ホリングスワース社から2軸ボギー客車8両が輸入されます。

17021501.jpg ケプロンによる機関車の発注書

蒸気機関車は、1・2と付番され、1は「義經(義経)」2は「辨慶(弁慶)」と命名されました。

明治13年(1880) 1, 2(製造番号368, 369)
明治15年(1882) 3, 4(製造番号487, 488)
明治17年(1884) 5(製造番号643)
明治18年(1885) 6(製造番号672)
明治22年(1889) 9, 10(製造番号1009, 1010)

※1887年にはボールドウィン製の1C形テンダー機関車(7, 8。後の7170形)を輸入。
1889年の「9, 10」は、後にポーター製の「7, 8」と番号を交換(10, 9→7, 8)し、ポーター製を「1~8」にします。

17021502義経 「義經号」

17021503弁慶 「辨慶号」

西部劇に登場するようなアメリカの古典的スタイルの蒸気機関車ですね。
3は「比羅夫(ひらふ)」、4は「光圀(みつくに)」、5は「信廣(信広/のぶひろ)」、6は「しづか(静御前の静/しづか)」と命名されました。

明治15年(1882)開拓使は廃止され、鉄道と炭鉱は工部省の所管となります。11月13日には手宮-幌内間が全通し、翌年の9月17日には開業式が札幌で開催され、皇族や陸軍卿も列席し多くの市民も祝ったそうです。

しかし、幌内鉄道の経営は順調ではなく、6年度のうち収益のあったのたったの2年度のみで、それもそのはず石炭の輸送は無賃。(笑)

明治19年(1886)1月26日、鉄道と炭鉱は工部省から北海道庁に移管。しかし、道庁は予算も無く翌明治20年(1887)4月に炭砿鉄道事務所を廃止して炭鉱と鉄道を分離し、北海道鉄道事務所とします。

同年12月、4月まで炭砿鉄道事務所長だった村田堤が、幌内鉄道の運営を請け負い未成線の幾春別線を開業させたいとの出願します。

村田は黒田の腹心の一人で、何となく大人の事情がプンプンしますが、明治21年(1888)3月、北海道庁は村田の出願を認可し、村田は北有社(ほくゆうしゃ)という団体を設立し、幌内鉄道の運営を請け負うことになります。業績は上向いたそうですが、明治22年(1889)12月11日に北有社は北海道炭礦鉄道に事業譲渡し、官営幌内鉄道は消滅します。

■ 官営幌内鉄道の略年表

明治13年(1880)
1月 小樽市内の若竹第3隧道で建設工事着工。
9月28日 米国貨物船「ジェラルド・C・トベイ号」が手宮に入港し、鉄道機材荷揚げ。官営幌内鉄道のレール敷設を開始。
10月17日 米国貨物船「ジェラルド・C・トベイ号」が完成間近の手宮桟橋に接岸。
10月24日 手宮桟橋-熊碓第4隧道間 (4.8km) のレール敷設が完了し、「弁慶号」にて試運転。

17021504弁慶号試運転 ※北海道内における初の鉄道運転。

11月28日 手宮駅-開運町駅-札幌駅間 (22M25C≒35.9km) が仮開業。手宮駅・開運町駅・銭函駅・軽川駅が正式開業。朝里駅・琴似駅・札幌駅(仮停車場)を開設。

明治15年(1882)
1月 札幌仮停車場が札幌停車場(一般駅)として営業開始。
2月8日 北海道開拓使の廃止に伴い、鉄道と炭鉱が工部省に移管。
6月25日 札幌駅-江別駅間が仮開業。江別駅を開設(仮開業)。
11月13日 札幌駅-幌向太駅-幌内駅間が延伸開業、手宮駅-幌内駅間が全通。江別駅(一般駅)が正式開業。白石駅・幌向太駅・幌内太駅(一般駅)・幌内駅(貨物駅)を開設。
11月14日 幌内駅から手宮駅へ幌内炭砿の運炭開始。

明治19年(1886)
1月26日 鉄道と炭鉱が工部省から北海道庁に移管。

明治20年(1887)
4月 北海道庁の炭砿鉄道事務所が廃止され、炭鉱と鉄道が分離。

明治21年(1888)
4月1日 官営幌内鉄道が北有社に運輸業務を譲渡。
12月10日 幌内太駅-郁春別駅間が延伸開業。郁春別駅(一般駅)開設。

明治22年(1889)
5月28日 郁春別駅が幾春別駅に改称。
12月11日 北有社の事業譲渡に伴い、官営幌内鉄道が北海道炭礦鉄道に移管。手宮駅-幌内駅間と幌内太駅-幾春別駅間が北海道炭礦鉄道幌内線。

ま~ザックリですが、こんな感じです。
一方上記の機関車たちのその後ですが、北海道炭礦鉄道に引き継がれ、煙突のパイプ形への交換やカウキャッチャーの撤去などの改造が行なわれ、原形が損なわれてしまいます。

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明治42年(1909)、鉄道院の車両称号規程が制定されて、7100形の7100~7107に改番となりますが、車両個別の変遷は…。

大正6年(1917) 7106が廃車後、日本製鋼所室蘭製作所に売却。

大正11年(1922) 7103が廃車。
※7101を「義經」と推定し東京に新設の鉄道博物館(のちの交通博物館)に保存決定。

大正12年(1923) 7100, 7102, 7104, 7105, 7107が廃車。
※7100, 7102, 7107は北海道建設事務所へ。
※8月、7101は移送されるが9月1日に発生した関東大震災により足止め、その後黒磯駅構内の機関庫に10年以上も保管。

大正14年(1925) 7104, 7105が梅鉢鐵工所(後の帝國車輛工業)に譲渡され、後に高知鉄道(後の土佐電気鉄道安芸線)の建設用に譲渡され工事完成後に解体。

さて、ここからは保存についてのお話です。

北海道では2号機関車である「辨慶」を札幌で保存しようということになり、札幌鉄道局工作課が銘板を調査しました。ところが謎の部分が多いのです。(7105は銘板が失われていたため調査不能)

文字の説明だと判り難いので調査結果は↓のようにしてみました。2号機関車「義經」は製造番号が「369」で「7101」だという意味です。

2「辨慶」 369 7101
3「比羅夫」487 7103
4「光圀」 488 7104
5「信広」 643 7102
6「しづか」 672 7106
9→7 1009 7107
10→8 1010 7100
7105 調査不能

この結果を見ると1号機関車の「義經」がないのですが、ということは銘板の無かった「7105」が製造番号「368」になりますよね。ところが工作課では7101を「義經」、7105を「信廣」と断定してしまいます。
また7102は「辨慶」としたものの、製造年が合致しないため、7106を「しづか」として保存することに決めました。

台枠かボイラーかという論争があります。ボイラーは消耗部品だから台枠が重要であるという考え方です。たしかにそうですが7100型の銘板はボイラーについていたり、刻印が発見されたり…。そこら辺が複雑で調査の混乱を招いたのかもしれません。

最終的には3台の7100型が復元されます。

昭和11年(1936)、7101は大宮工場で「義經」として復元されることになりますが、鉄道ファンから「7101が辨慶」で、「7105が義經」の指摘があり、最終的には「7101」を「辨慶」として復元することになりました。

昭和15年(1940)、復元が完成し鉄道博物館に収蔵、静態保存。昭和33年(1958)に鉄道記念物に指定。

昭和25年(1950) 北海道庁建設局に譲渡されていた7100・7102は、用途廃止となり苗穂工場へ。
7100は11月の北海道鉄道開通70周年記念展に整備の上展示。

昭和27年(1952) 鉄道開通80周年の年。鷹取工場では「義經」を復元することになり、7105は約4ヶ月で動態復元されました。苗穂工場の7102は解体。

9月、日本製鋼所室蘭製作所で日鋼9号機として不要になっていた7106が国鉄に引き渡され、苗穂工場で7100の部品を流用して10月に「しづか」の復元を完成。7100は解体。

復元された「義經」と「しづか」は東京に送られ、10月14日の鉄道記念日に原宿駅の宮廷ホームで揃って展示され、その後「義經」は鷹取工場、「しづか」は苗穂工場に保管。

昭和37年(1962)、「しづか」は小樽市手宮の北海道鉄道記念館(現在の小樽市総合博物館)に移され、翌年には2両揃って準鉄道記念物に指定。「義經」は平成16年(2004)、「しづか」は平成22年(2010)に鉄道記念物になりました。

17021506.jpg 7200型

明治27年(1890)から明治30年(1897)までの間に5回にわたって計25両が輸入されたポールドウィン製の1C形テンダ機関車、後の「7200型」。彼らに主役を奪われた「7100型」たちは、明治45年(1912)に北海道建設事務所に借し渡され、軽い軸重を生かし現在の宗谷線・留萌線・名寄線・根室線など新線建設の資材を運ぶ建設用機関車となりました。7100たちはレールや資材を牽引して旭川に何度も来ていたことでしょう。

17021507明治31年 明治31年の旭川駅

17021508明治37年 明治37年の旭川駅

製造から130年以上の時を経て、「義経号」「弁慶号」「しづか号」は復活し保存されています。

義經model_7100-7105 京都鉄道博物館

train_img01_03.png 鉄道博物館

siduka.jpg 小樽市総合博物館

京都や埼玉は無理でも、せめて小樽。
今年こそ行こうと思います。(笑)

ラーメンを食べたくなっている方には申し訳ないのですが「蜂屋」です…。(笑)

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左が「しょうゆラーメン」、右が「しょうゆチャーシューメン」です。
※チャーシューメンには生姜がトッピングされます。

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「蜂屋5条創業店」は、周りにホテルも多いのであちらの方々も多く来店。
この日はオヤッサンではなく残念でしたが、息子さんの麺上げも安心できます。

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メニューはベースが750円。

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↓「新横浜ラーメン博物館」に出店していた時代のこんなのもありましたが、去年の夏のお話ですのでご注意を。

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そう言えば、いつも駐車場から裏口。

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次回は「5・7小路ふらりーと」から「ぎんねこ」を素通りし正面入口から…。(笑)

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明治でもないし昭和でもないなぁ~と写真を見ていて思い出した!
たしか北海道博物館のHPに解説があったなぁと調べてみると…。

ありました!「大正時代のある客車のなかで」

大正時代中ごろの冬、倶知安から小樽へ向かう列車の車内の風景です。ニシン漁場へ出稼ぎに行く人、農家の人、職人、商人、夫婦と子ども、学生などが乗り合わせています。列車内には石炭ストーブが置かれています。
乗客たちの服装には、綿入れ、刺し子、つまごなどの伝統的な農漁村の冬の服装に加え、頭巾、角巻や二重まわしなど和服形式の防寒着がみられます。背広や学生服、マント、オーバーなどの洋服や、革靴などがしだいに普及している様子もうかがえます。

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この手の展示もジオラマというのか判りませんが、かなり手の込んだ展示方法ですね。
下世話な興味ですが、説明文の下にでも小さく制作のご予算なんか…。無理ですよね。。。(笑)

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