北海道開拓の頃 ~ 住 ~

「いや~もぉ~雪にはまいるねぇ~(今年の雪には困ったもんだ)」

今年はこんな声があちらこちらから聞こえてきます。
旭川でも1月3日未明の冬の暴風雪では、我が家もそうでしたが隣のおじさんも…。

「ここに住んで、こんなの初めてだなぁ~」

屋根のある自宅の玄関も、吹き溜まりでドアが開きませんでした。
過去に記憶がないほどの冬ですが、降雪量や積雪量はどうなのか調べてみました。

あくまでも気象庁の、北海道旭川市の観測地点でのデータ(2013-03-13 pm4:00)です。

累積降雪量(2012年11月1日 - 2013年3月12日)
487(cm) 平年比75(%) 平年値653(cm)
※観測史上1位の値は、944 (cm) 1966年

積雪の深さ(2012年11月1日 - 2013年3月12日)
85(cm) 平年比123(%) 平年値69(cm)
※観測史上1位の値は、138(cm) 1987/03/04

データ的には、降った雪は少ないものの、積もっている雪は多いということになります。
ドカ雪があったり、風による吹き溜まりなど、データと体感としての雪の量はかなり違います。

さて、前置きが長くなりましたが、今回のテーマは「開拓の頃 ~ 住 ~」です。

我が家の暖房は、家の中がすべて暖かいセントラルヒーティング(集中暖房)で、熱源は灯油のボイラーです。
灯油のボイラーは外気を取り入れる必要がありますが、屋根からの落雪による換気不良や、強風でもエラーが出て運転中止になってしまいます。
真冬であろうが、外気温が氷点下であろうが、ある日突然暖房が止まるのですから当然家の中は寒くなります。

そんな事件が先日ありましたが、我が家の場合はセントラルとは別にリビングにストーブを設置していますので、最悪の事態にはなりません。

とは言うものの、いつもより寒い別室で想ったのが「開拓の頃」の家って?…です。
今までに各文献や、各資料館などでも見てきたものの、いざ自分の事として考えるとセントラルが止まっていることくらい幸せだと想えてしまうのです。

過去記事に、「夏の思い出 2010 ~北海道開拓の村 VOL.3~」 があります。

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「開拓小屋」とありますが、これはこれでとても恵まれた住居です。

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明治期の北海道開拓民の苦労は想像をはるかに越えていたと想えます。
一般の開拓民は、5町歩(一戸分)を開墾すると土地が払い下げられ、自作農として独立できるとされて全国各地から未開の大地北海道へ入植しました。

それぞれの郷里から入植地までの旅費や生活費などある程度の資金を捻出し、夢を抱いてたどり着いたのが巨木と密生するクマザサの原野です。
開墾のためにかかる年数は早くても3~4年。少しずつ開墾し種を蒔き、収穫した作物で収入を得られるどころか食べていくことすらままならない。
しかも、洪水や冷害に見舞われることもたびたびあったのです。

そんな人々が最初に生活したのが、「拝み小屋」といわれる簡素な住居です。
丸太を斜めに立て掛け屋根と壁を兼ねた骨組みを作り、その土地にある笹やカヤなどで、屋根や壁を葺いたものです。

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屯田兵は入地の際に兵屋が用意されていました。
江別市の「篠津屯田兵村」ではロシア式で、木の角組に室内にはペチカも付いていたそうです。
「江別太屯田兵村」では、暖炉が付きガラス窓も入ったアメリカ式の寒地向け住宅でした。
そんな恵まれた兵村もありますが、一般的な兵屋は板一枚の外壁=内壁仕上材で、暖房は囲炉裏です。
当然寒く不評ではあったものの、入地の際に家を用意してくれている屯田兵と、すべて自前の一般開拓民では雲泥の差があったのです。

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団体入植でも一般開拓民とそれほど変わりません。
もちろん地域によって違うかとは思いますが、三浦綾子の「泥流地帯」にも多く登場する三重団体の体験談があります。

明治30年に上富良野に入植した三重団体一行に吉沢くら(当時14歳)さんが居ました。
吉沢さんの体験では、入植前の旭農場(現美瑛町)に1週間滞在しているうちに、世帯主や若い人達が住宅をたてる準備をしたそうです。

「堀立て小屋ではありません。カヤで葺いたオガミ小屋だった」

その小屋を作るのに、荷物を解いた縄でしばりつけたものの、これでは冬が越せないので、秋に建てた堀立て小屋からは…。

「野地スゲをカゲ干にして叩いたスゲ縄を使い、藁縄は米俵を解いたものを使ったものです。家の出入口にはヨシをあみつけたヨシ戸だった」(町報「かみふらの」29号、昭36)。

広瀬七之丞ら東中の古老たちは…。

「入った時には縄なんかあるじゃなし、縄の代りにぶどうづるで縛り、床には草を敷いてむしろ代りにしたものだ」(「東中郷土誌」昭27)と回顧しています。
ちなみに、小作に入った農民が一時しのぎに「拝み小屋」を建てたけれども、建築資金がたまらず、ついつい5年、10年と住み続けてしまうことを「仮末代の小屋」といったという(「かみふ物語」昭54)。

雪が布団の上に積もった朝をむかえるのは珍しいことではなかった住宅が「拝み小屋」です。
その後に余裕ができると、「堀立て小屋」を建てます。

「堀立て小屋」の構造は、地元の太い材木である楢や槐や桑などの木材を、柱は50~60㎝掘った地面に埋め、掘った穴に石を砕いて入れて柱を補強して立てる。
それにより土台を固められ小屋全体を丈夫にすることが出来るのです。

ちなみに、開墾を終えて成功検査に合格するために、3間×4間の12坪の家が必要で、屋根を葺いて戸をつくり、床を半分張れば住宅と認められました。
合格すると、その土地が開拓した人のものになり、やっと北海道の土地持ちになったのです。

やがて開拓民は、「掘っ立て」から「土台付きの家」を作ります。

この家が出来て、やっと開拓に成功した証です。
柱や梁も太い樹木を角材に加工して、基礎は大きな石を要所に置き、その上に工材をのせる(置く)建て方です。
それらの建物は、後に住居を建て替えた際には納屋などとして利用したり、旭川近郊にはそんな感じの風景がかなり残っています。

それにしても、開拓民は最低の身の回りの物しか持ってこれなかったはずです。
雪や寒さをどのように過ごしていたのか、雪をはじめて見る地域出身の人もいたでしょう。
除雪するにも道具すらない環境で、もっとも道すらないような地域でよくも冬を越せたものだと思います。


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