毛陽(もうよう)

道道38号夕張岩見沢線は、夕張市より岩見沢市に至る道道(どうどう=※国道・県道と同じく北海道道)です。
起点:夕張市清水沢3丁目(=国道452号交点)
終点:岩見沢市南町8条3丁目(=国道234号交点)
総延長:46.8km

岩見沢方面から、万字線の歴史を感じつつ夕張へ進むと、「毛陽」地区があります。
「万字線鉄道資料館 :: 2013/07/28(Sun)」 で、群馬県とは縁の深い地域とのお話を聞きました。高柳さんがどうのこうのと…。

では、まずは高柳 広蔵氏について。

1867年1月18日(慶応2年12月13日) - 1947年(昭和22年)2月14日)は、日本の政治家。
北海道岩見沢村長、岩見沢町長、岩見沢市長。

上野国(後の群馬県佐波郡豊受村、現伊勢崎市)に生まれる。
東京法学院(現・中央大学)を卒業。

1895年(明治28年)7月 岩見澤村毛陽に入植し200町歩の開墾に従事。
1901年(明治34年)7月10日 2代目岩見澤村長に就任。以来、39年間にわたり岩見沢村長、町長、市長を務める。
1901年(明治34年)6月11日 今井勇吉が辞職した為、1901年7月10日に村会の村長選挙により高柳を選出。
1901年(明治34年)7月10日(~1906年1月31日) 岩見澤村長(2代目)に就任。
1907年(明治40年)2月1日(~1909年7月10日) 町制施行に伴い初代岩見澤町長に就任。
1909年(明治42年) 前岩見澤沢町助役だった小田切亮二に町長選で破れる。
1913年(大正2年)10月20日 岩見澤町議に対して町長による再選の斡旋があったとの批判により小田切が辞任。
1913年(大正2年)12月11日(~1943年3月31日) 岩見澤町長(3代目)に再就任。
1943年(昭和18年)5月12日(~1945年4月25日) 市制施行に伴い初代岩見沢市長に就任。
1945年(昭和20年) 引退。
1947年(昭和22年) 80歳で没。
1952年(昭和27年)には「高柳広蔵翁顕彰会」が同市の有志らによって設立され、功績を称え市庁舎前庭に銅像が立っている(1953年8月7日建立)

岩見沢市の年表と比較してみましょう。

1878年(明治11年) 開拓使が幌内炭山等を行き交う人々のために官営休泊所を設置。
1882年(明治15年) 幌内鉄道幌内 - 手宮間開通。幌向駅、岩見沢簡易乗降所開設。
1883年(明治16年) 入植開始<岩見沢開基>。
1884年(明治17年) 岩見沢簡易乗降所を駅に昇格。二級町村制岩見沢村開村・戸長役場設置、459名の士族入植、岩見沢郵便局開設。
1885年(明治18年) 1,414名の士族入植
1889年(明治22年) 上川道路開通
1890年(明治23年) 夕張道路開通
1891年(明治24年) 北海道炭礦鉄道岩見沢 - 歌志内間に鉄道開通。
1892年(明治25年) 人口約6,200人(分村前)、栗沢村を分村、輪西 - 岩見沢間に鉄道開通、岩見沢駅が現在地に移転。

エピソード
岩見沢草創期から入植・開墾していたことや学識が深かったこともあり、岩見沢村民の推薦を受けて村長に就任。
長期に渡り首長に留まっていたが、その運営手法は、大地主や豪農優先・優遇の観点で村政・町政・市政にあたる事も多く、庶民からは「広蔵ではなく『狭』蔵である」と批判されることも多かった。
※@Wikipedia

詳しくはわからないけど、評判は悪かったのでしょうか。
しかし、長年の功績がなければ、銅像なんか建ててくれないかと…。

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毛陽は古くからリンゴを中心とした果樹栽培が盛んな土地だったそうですが、美流渡・万字地区の石炭産業の衰退により人口が激減したとのこと。
毛陽小学校の跡地などを利用して開設されたのが、「いわみざわ地域交流センター ふるさと毛陽」です。
当初はメープルロッジと毛陽コロシアムの2施設、1998年に毛陽交流センターが開設されたそうです。

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現在は農産物の直売や、特産品の開発などの研修・実習・加工体験室も設けられ、毎年10月に開催される「毛陽・万字りんご祭り」の会場としても使用されるとのこと。

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人工芝を敷詰めた多目的体育館や、リンゴ・プラム・モモ・プルーンなどの収穫体験ができるオーナー制の観光果樹園。
計5面の屋外テニスコート、バーベキューサイト…。
ラベンダーやホタルの鑑賞もできる、チョットした穴場です。

スパ・イン メープルロッジは、ログハウス風ホテルで慢性皮膚病や神経痛に効能があるナトリウム炭酸水素塩泉の温泉。
客室はツインルームとファミリールーム(4人部屋)が各6室、デラックスツインルーム2室、およびコテージ2棟の計16室。

ちなみに岩見沢は旭川と同じく交通の要所でした。
1961年の岩見沢駅には、函館本線・室蘭本線・幌内線・万字線4本の鉄路をさばく東北以北最大の操車場が完成します。
その後、炭鉱の相次ぐ閉山の時代を迎えた1980年には操車場は廃止されます。



追記 2014/01/11(Fri)

新井 雀里

通名:新井雀里(あらい・じゃくり)の誕生は、文化10年(1813)。〈名は小一郎(固一郎とも書く)、諱は広道、雀里は号〉

略歴は…。

旧伊勢崎藩士で、幼い頃より学問に精励し27歳で藩校学習堂の助教授となり、江戸藩邸の信古堂の教授を兼ねながら古賀恫庵に詩文を学び、35歳には学習堂の教授頭取になります。
安政5年(1858)〈※安政3年説もあり〉には、当時幕府直轄地であった蝦夷地(北海道)の箱館奉行所雇として10数年もの長期間、長万部の移民事業など開拓事業に従事されたそうです。

戊辰戦争最後の地である函館戦争では、榎本武陽と共に五稜郭に籠城し抗戦。降伏後は拘束されるもののその後に放免され帰郷します。明治維新後は私塾「南淵塾(なんえんじゅく)」を開き漢学を教授。その私塾からは後に伊勢崎地方で活躍する多くの逸材が輩出されたとか。

地元の方はご存じなのかもしれませんが、明治15年には国定忠治の墓碑銘をはじめ数多くの墓碑銘を書いているそうです。
明治33年(1900)2月に87歳で亡くなります。

ここからが本題ですが、明治・大正期に伊勢崎地方の政財界で活躍する人物を育て上げた新井雀里。
高柳広蔵は雀里の弟子であり、なんと一時は養子でもあったということです。

詳しくは取材不足ではありますが、高柳広蔵が、明治28年(1895)北海道に渡る決意の中に、新井雀里の姿が無かったとは言い切れません。

それにしても現在の岩見沢市街からは、かなり郊外となる毛陽地区ですが、そんな地の人物が岩見沢の村長・町長を歴任することは一般的には考えられないのではないのでしょうか。その謎は次回、新たなる史実を発見することができたならご紹介したいと考えています。

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COMMENT 9

あず  2014, 01. 11 [Sat] 22:10

■ 伊勢崎 さま

コメントありがとうございます。
御親戚がいらっしゃるということで、「毛陽は昔は群馬と言われてた」なんて説得力がありますね。

ルーツといいますか、その参考になるかと「新井雀里」について追記しました。

「あんなに離れた場所?」については、開拓の時期としてオイシイ所は少なくなっていたように思います。数年後には岩見沢からいくつかの地域が分村していくのですから、毛陽地区も条件が整えば「村」として独立したかもしれませんね。

高柳氏をして、なぜそうならなかったのかというのも不思議な話です。

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伊勢崎  2014, 01. 11 [Sat] 17:02

推測するに群馬の伊勢崎はその昔、染物が盛んなの町だったそうです。それで毛陽と名付けたのかもしれません。
岩見沢とあんなに離れた場所になんで開拓したのか謎ですよね。

 

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伊勢崎  2014, 01. 11 [Sat] 16:53

間違えました空知農業でした。(現岩見沢農高)

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伊勢崎  2014, 01. 11 [Sat] 16:44

現在の市立病院の建設で町医者から突き上げを食ったとか岩農高を作ったとか岩東高を作ったのにね

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伊勢崎  2014, 01. 11 [Sat] 16:39

 毛陽は昔は群馬と言われてたそうです。
親戚が毛陽にいますが今でもメープルロッジの横に高柳農場はあるし
御子孫はいらっしゃいますよ。高齢だと思われるので詳しい話を聞けるかどうかわかりませんが群馬の伊勢崎からのルーツが分かればいいですね。

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あず  2013, 08. 12 [Mon] 00:36

■ そうですか 様

コメントありがとうございます。

色々とご指摘された点について、当方では確認できません。
土地の件も同じです。

退職金の不払いってあり得るのかどうか…。
辞退したというのなら理解できますが、そんな事実が確認されたのかご教授いただけたならと…。


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そうですか  2013, 08. 10 [Sat] 14:46

退職金は不明

 はじめてこのサイトを見ました。
高柳 広蔵氏について一番不思議な事があります。
まず村長、町長、市長をしていてまともに退職金を払えば岩見沢市
が潰れると言われたのですがその金を誰ももらってないという事です
。さらに言えばたくさんの土地を所有していたはずが、自分の住んでいた土地すら借り物だった事です。その後、子孫がバブル期に高値で買い戻すのですが、不思議です。
高柳広蔵が残したものはわずかな毛陽の高柳農場と神社の土地と高柳橋くらいなものです。もし市の職員が財政難で退職金を不払いしていたならその後の子孫がどれだけ苦労したか計りかねます。

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あず  2013, 08. 02 [Fri] 23:55

■ チョコ 様

「毛陽」がいつから字名になったのか。
また、高柳広蔵氏の来歴も手持ちの資料では分かりません。

毛陽は岩見沢市街からは、かなり遠い地域です。
しかし高柳広蔵氏は後に、初代岩見沢市長に就任するのです。
そう考えると、入植した地域で成功されているはずです。

現在でも毛陽とされるのは、本人が名付けたのかどうかは分かりませんが、おそらく高柳広蔵氏の何らかの影響があった可能性は強いのだろうと思います。

アイヌ語由来の説は音の響きからしても無いかなぁ。

ちなみに群馬から北海道へやって来た方は、記録に残る屯田兵や団体での入植はかなり少ないです。
それは、遠い北海道へ行かなくても何とかなったからなのだと思います。

個人での来道数は曖昧になりますが、全国から北海道で一旗揚げようと多くの人々がやってきました。

その時々で、開拓をすれば土地が手に入る政策がありました。
また、商業としての来道も多くあったようです。

伯父さまも群馬の山間部に将来の行き詰まり感があったのか。
北海道の広い大地に何の夢を見たのでしょうか…。


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チョコ  2013, 08. 02 [Fri] 02:03

高柳広蔵氏のこと、群馬県との縁など興味深く読ませていただきました。
こんなに早い時期に群馬から入植したんですね。
関連して思い出したことがあります。現在98歳の母が語る思い出話に、「兄が岩見沢の北村にある綿羊組合で働いていた」というのがあり、母が幼い頃の話なので昭和初期かと思われます。現在とは違い、当時群馬の山間部に育った伯父がなぜ北海道へ?と何となく唐突な感じを受けていました。
もしかしたら、高柳氏を通しての縁に関係があったのでしょうか。
もしかしたら群馬から岩見沢へ行った人はたくさんいたのでは?
10年位前に母が北海道へ旅行した折に、幼い頃の兄の思い出を辿り、北村を訪れ、農業資料館の前で撮った写真があります。
北海道の地名はアイヌ語に由来するものが多いようですが、毛陽もそうでしょうか。偶然ですが群馬は昔「毛の国」といいました。

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