荘内藩ハママシケ陣屋跡

前回、浜益の歴史に少しふれましたが、安政6年(1859)年に荘内藩は幕府から西蝦夷地警備を命じられ、浜益に陣屋を造りました。浜益には「荘内藩ハママシケ陣屋跡」があります。

近くまで行けば分かるだろうとタカをくくっていましたが、案内板など全くありません。
想像では海からそう遠くはなく、多少小高いところにあるだろうと…。
人に聞いても分からなく(聞き方が悪かっただけです)諦めて、閉まってるよなぁ~と思いつつ「郷土資料館」へ。
ところが開館していて、オマケに管理人さんともいろいろお話が出来ました。
せっかくなので、陣屋跡に向かいましたが、これまたなかなか見つけることが出来ませんでした。

目印は八幡神社ですが、そもそもこの神社も遠くから目立つというわけではありません。
ちなみに地元の方に聞くときは、大手門どこですかが一番伝わると思います。
旭川だったら、たぶん焼肉屋を教えてくれると思います。



北海道神社庁のホームページでは、住所が〒073-1406 石狩市浜益区川下村35番地。
石狩市のホームページで合併後(平成17年10月1日から)の住所を調べてみました。
073-1406 浜益郡浜益村大字川下(かわしも)村○○番地 → 061-3106 石狩市浜益区川下(かわしも)○○番地

【例祭日】8月15日
【祭神】 誉田別尊(ほんだわけのみこと)
【旧社格】村社

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お、今日お祭りなんですね。御輿や渡御があるようです。
天狗舞、獅子舞、子供御輿、最後に踊り山と呼ばれる女性ばかりの行列が続くとのこと。
奴の歩みとともに鳴り響く鈴の音。笛と太鼓のお囃子。
130年の歴史があるそうです。歴史あるお祭りを見たみたいものです。


さて陣屋跡ですが、神社の右隣に位置します。
鳥居の前に車を止めて、テクテクと登っていきます。

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これが復元された大手門です。

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昭和63年に国指定史跡となっていますが、草ボーボーの中に大手門付近くらいしか整備はしていないようです。

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土塁や標柱もあるようなのですが、時間もないので周りの風景を眺めて終了。

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当時を振り返ってみましょう。

安政元年(1854) 江戸幕府は鎖国を破り日米和親条約を結び、下田と箱館を開港します。
翌安政2年(1855) 東西蝦夷地を幕府直轄とし、松前藩のほかに、仙台・南部・津軽・秋田の四藩に東西蝦夷地・北蝦夷地(樺太)の分担警備を命じます。
安政6年(1859) 会津・荘内(鶴岡)両藩を加え、北方に対する警備の備えとしました。

荘内藩主酒井忠発が、同年9月に幕府から命じられたのは、西蝦夷地のハママシケ(浜益)・ルルモッペ(留萌)・テシホ(天塩)・テウレ(天売)・ヤンゲシリ(焼尻)を領地とし、ヲタスツ(歌棄)・アツタ(厚田)までの警備でした。

万延元年(1860)5月には、現地で幕府箱館奉行から新領地引渡しを受け、本陣屋を置くハママシケには多くの人々がやって来ました。

副奉行以下物頭 1人
足軽 40人
元締及兼郡奉行・目付役・兵糧方金受払方兼普請方・代官 各1人
平士 20人
医師 2人
徒目付・足軽目付・大工棟梁 各1人
開墾并ニ諸職人郷夫等 40人ほか

従者の合計は193人と記録されています。
脇陣屋を置くルルモッペには計57人、トママイ(苫米)には計161人、テシホには計29人が配置されたそうです。

面白いのは、警備と言うと武士の集団なのかと思っていたら、様々な職種の人々がいることです。

文久元年(1861) 庄内藩は郷夫を募集します。。
郷夫とは蝦夷地開発のために旅費や日当を給与し、期間限定で雇用するという仕組みだったようで、大工・桶師・猟師・鍛冶・作園師・味噌、醤油、酢の醸造師…、募集から2ヵ月後の3月に入地したそうです。

警備と共に、新たなる領地として本格的な開拓を試みたのではないでしょうか。
しかし、幕末の戊辰戦争が表面化した慶応4年(1868)藩士たちは突然庄内藩に帰ることが決定されます。

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 安政6年(1859)、幕府は蝦夷地を奥州6藩に分け与え
その警備を命令しました。。
 荘内藩は本村を含む日本海に面する西海岸一帯(留萌苫前
天塩など)40余里に及ぶ地域を拝領しました。翌、万延元年
、家老松平舎人を総奉行として現地調査を行ない意見書を提
出しました。この調査書をもとに、二代目総奉行酒井玄番了
明が赴任し、警備、開拓の本陣をハママシケ(浜益)に設けた
のがこの場所で奉行所をはじめ、寺、神社、長屋などを建
て集落が作られました。一行は永住計画にもとづき各種の
職人、農民を集め資材、人員の運搬にえぞ地渡航用に2隻
の弁財船も建造され往復しました。この時黄金川からこの
場所まで水路を設けましたが、その費用が金千両を要した
ことから「千両堀」と称され現在も残っています。
 その後戊辰戦争が勃発したことにより事態が変わり慶応
4年には引き揚げ作業が始まり7年に及ぶ年月と莫大な費
用をかけた荘内藩えぞ地拝領地の警備、開拓は終りました。
          (石狩市教育委員会 現地説明板)


不思議なのは、荘内藩は藩内から1300人余の農民も移住させたという。
7年とは言え開拓も進み、寺や神社まで建立している。
弁財船を2艘も造り、物流も確保できている。
なぜあっさりと捨てることができたのか。

実は、ドイツの国立軍事文書館に貴重な資料があります。
その資料は戊辰戦争で薩摩・長州を中心とした新政府軍との対決を目前に、会津・庄内両藩が北海道などの領地の譲渡を提案しプロイセン(ドイツ)との提携を模索していたという内容の文書で、両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが、プロイセン宰相ビスマルクは戦争への中立などを理由に断ったことを伝えているそうです。

慶応4年(明治元年)(1868)の公文書3点で、7月31日付は、駐日代理公使のブラントがビスマルクへあてたもの、10月8日付は、宰相からフォン・ローン海相あて、10月18日付は、海相から宰相への返事です。

この年は5月に江戸城が明け渡され、7月初めに上野で新政府軍と彰義隊との戦いが決着。戦争の舞台が東北へ移る緊迫した時期です。

5月11日(慶応4年4月19日) 戊辰戦争: 宇都宮城の戦い
6月10日(慶応4年閏4月20日) 戊辰戦争: 会津戦争
6月21日(慶応4年5月2日) 戊辰戦争: 北越戦争
6月22日(慶応4年5月3日) 戊辰戦争: 奥羽列藩同盟成立
7月4日(慶応4年5月15日) 戊辰戦争: 上野戦争

会津・庄内両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられますが、プロイセンの北海道植民地化計画もありました。
欧米列強の思惑というものが、藩を後押ししたことは言うまでもありません。
イギリスは薩長、フランスは旧幕府側。

では誰がプロイセンと会津・庄内藩を結びつけたのか。
そこにはある兄弟の存在があったようです。

兄はジョン・ヘンリー・スネル(John Henry Schnell、日本名:平松武兵衛)
弟はエドワルド・スネル(Edward Schnell、)

謎の多い兄弟のようですが、万延元年(1860)にプロシアが日本と通商条約を結ぶと、初代領事としてマックス・フォン・ブラントが赴任します。
兄のヘンリーはその下で書記官を務め、弟のエドワルドはスイス総領事書記官だった。

慶応3年(1867) 兄弟は書記官を辞め新潟に移り、弟のエドワルドはエドワルド・スネル商会を設立。
会津藩家老・梶原平馬は越後長岡藩家老・河井継之助を仲介に、ライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬、河井も数百挺の元込め銃とガトリング砲を2挺購入。

兄のヘンリーは梶原と会津に行き軍事顧問を務めます。その後米沢藩の軍事顧問も兼ね、奥羽越列藩同盟に大きな影響を与えます。
会津藩主の松平容保は、ヘンリーに平松武兵衛の名を与え、屋敷も提供しました。

戊辰戦争が起こると上海や香港から武器弾薬を運び、奥羽越列藩同盟に送り込みます。
明治維新後の、明治2年(1869)にカリフォルニア州に会津若松の人々約40人と共に移住し、「若松コロニー」という名の開拓地を建設したが1年ほどで経営は行き詰まります。
1871年4月、金策のため日本へと向かったようですが、その後は行方不明とされています。
弟は新潟から東京へ移り商会を開いた。明治19年(1882)頃まで日本国内での活動が確認されているようですが、こちらもその後の消息は不明。


さて、プロシアの初代日本領事マックス・フォン・ブラントですが、当然日本での権益拡大を考えます。

「蝦夷地に基地の獲得を考えるべきであり、今すぐ交渉を始めるべきです。」
「蝦夷地は気候が北ヨーロッパと酷似しており、土地は広大で水は豊か、農業牧畜に適している。」
「蝦夷地は、5000人の海兵隊により、簡単に手に入れることができる。」

ブラントは北海道植民地化計画のためにか、戊辰戦争が始まる前2度も北海道を調査しています。
1回目は1865年9月、2度目は1867年8月。
ゲルトナーなる人物と共に…とありますが、実はこれがリヒャルト・ガルトネルと同一人物です。

過去記事に、「 リヒャルト・ガルトネル :: 2011/02/23(Wed)」があります。

海軍省に提案を却下されたブラントは、土地を開拓し実質的な支配を始めました。
それを行ったのがゲルトナー=ガルトネルでした。

寒冷で稲作には向かない蝦夷地に西洋農法を初めて持ち込みました。
ラッキーだったのは、榎本武揚による蝦夷地共和国の成立で、ゲルトナーは条約を結びます。
函館近郊の土地七重町、広さ300万坪・1000haの土地を99年間借りるという内容でした。

1869年の函館戦争終結に伴い、榎本武揚の北海道共和国はたった5か月で消滅。
新政府は、ゲルトナーに契約解除を申し入れます。
賠償金の額はなんと6万2500ドル(約18億円)。

話が脱線しましたが、会津・庄内両藩とプロイセンとの関わりが数年変わるだけで日本の歴史も大きく変わっていたかもしれません。
もう少し早くからプロイセンやひょっとしてアメリカからもバックアップ体制がとれたなら、会津での戦争の結果もきっと違っていたはず。
奥羽越列藩も違う戦いになっていたかもしれません。
逆に早くからバックアップが見込められなかったら、大きな戦いになっていなかったかもしれないし、浜益からの撤退もなかったのかもしれません。

ちなみに戊辰戦争により、明治元年9月26日(1868年11月10日)庄内藩も恭順しましたが、最後まで自領に新政府軍の侵入を許しませんでした。
12月に公地没収となり、11代・忠篤は謹慎処分。弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥国会津藩へ、翌明治2年(1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返します。
しかし、本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定が減額)を献金し、明治3年(1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰しました。

先日書いた、仙台藩支藩の角田藩が10万両の詐欺にあったとされる背景には、この庄内藩の事実が大きく働いたのでしょう。

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