石北本線 vol.6 ~奥白滝駅~

奥白滝駅、正確には旧奥白滝駅。現在は奥白滝信号場です。



前回はいつもの下調べもしない「行き当たりばっ旅」でスルーしてしまいました。
調べてみると、何てことはない 「旭川紋別自動車道 奥白滝インターチェンジ」 のすぐ近くでした。
訪問予定の方は地図を参考にしてください。Ⓐの場所が旧白滝駅です。

しかし、冷静に考えると鉄道の駅も必要が無くなった地域に、なぜインターチェンジが必要なのでしょう。
奥白滝IC+白滝PAは「道の駅しらたき」併設ですが、次の白滝ICまではわずか10.6㎞。
もし、白滝IC+白滝PAならば、奥白滝ICは必要なのかという疑問があります。
そんな予算があるのなら、別の使い方が有りそうなものですが…。

奥白滝駅の略歴

1932年(昭和7年)10月1日 国有鉄道の駅として開業。一般駅。
1983年(昭和58年)1月10日 無人化。
1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化によりJR北海道に継承。
2001年(平成13年)7月1日 駅業務を廃止、信号場として運用開始。

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駅ではないので、廃線になった駅舎の風情がありますが、実際には列車が通過する…。
何とも不思議な空間です。

電話ボックスではなく鉄道電話の施設や、改札口の名残が残っています。
もう少し季節が早ければ、ルピナスの咲く風景が見られたようです。

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左が上川方面、右が遠軽方面の風景です。
緑濃い風景ですが、秘境のイメージとは重なりません。

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国道から駅までの道には何もありません。
しかし、想像もできないでしょうが、かつての駅前には駅舎の左手に18戸の国鉄官舎が建ち並び、雑貨屋・魚屋・菓子店なども軒を並べていて、豊富な森林資源にかかわる人々や、石北トンネル関連の人々で奥白滝は大いに賑わっていたそうです。

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奥白滝に最初の開拓団が入植したのは、大正2年(1913)5月に福島県からの団体移住が18戸、同じく宮城県からの10戸。翌大正3年(1914)2月には山形団体15戸、3月には福島県から15戸…。

鉄道が開通した昭和7年(1932)頃には、駅前通りと国道333号線の角に「福島屋旅館」と「山形屋旅館」という2軒の旅館が開業しました。大庭家が経営する福島屋旅館では、日本通運の営業所も兼業し、山のように積まれた原木は貨車輸送で全国に送られていました。

原木と言っても、その樹種は様々なものがありますが、エゾ松トド松の針葉樹は、主に建築用の柱や梁などの構造材としての用途に使用されます。ナラ・タモ・シナ・カバなどの広葉樹は、主に家具や建材として現在でも多くの需要があります。北海道の木材は、品質も良く海外へも輸出されていましたが、現在ではナラ・タモでさえ逆に輸入品が主流となっています。なぜこのような状況になったのか、それは国の政策に翻弄されたとも言えます。

戦後の日本では住宅不足を解消するために、住宅金融公庫・日本住宅公団・公営住宅制度の公的住宅供給対策が行われ、昭和30年(1955)からは「住宅建設十箇年計画」に基づき住宅建設が推し進められました。この住宅需要に対して国内木材だけでは需要に追いつかないとし、政府は外材の輸入を拡充します。徐々に規制を緩和し、昭和39年には輸入木材が完全自由化となりました。

全国的に大量の外材輸入がなければ、日本の森林資源は枯渇したとする考え方もできますが、結果として日本の林業は国から見放されたとも言えます。安い外材があるのだから木材業者は高い国内材にこだわらない。国産の丸太材は昭和42年(1967)以降減少の一途をたどります。

奥白滝の、山形屋旅館を経営する岸家は昭和28年に、大庭家も昭和32年には白滝市街に移転したそうです。これが何を物語っているのか、乱伐により木材が枯渇し森林資源の荒廃がすでにあったのでしょうか。

木材の仕事がなくなると、林業関係だけではなく農家にとっても冬の造材作業での稼ぎも無くなります。時代の波として農業の機械化が進みますが、借金してまで機械を入れても「マカタ」しない。
※「マカタ」は北海道弁で「収支が合う」とか「利益がある」意味です。

昭和48年にはすべての住人が奥白滝から居なくなったそうです。

ちなみに白滝村立奥白滝小学校は、大正4年1月11日開校、昭和25年10月31日閉校。
大正3年には一帯で70余戸の住宅があり、大正8年には児童数125名を数え、閉校の昭和25年頃には50名ほどだったそうです。

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