植芝盛平と白滝 vol.1

植芝 盛平(うえしば もりへい)と聞いても、ピンとこない方が多いかもしれませんが、合気道は聞いたことがあると思います。その合気道の創始者が植芝盛平です。(あえて翁とは書きません)



個人的には、植芝盛平=合気道=白滝というイメージがありますが、その生い立ちやなぜ来道に至ったのかなど不明な点が多々あります。そして北海道で何をやったのか、さらになぜたった8年で北海道を去ることになったのか…。

盛平は、1883年(明治16年)12月14日、和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(現 田辺市)において植芝家の長男(姉3人・妹1人)として生まれます。植芝家は富裕な農家で、父の与六は村会議員を務める村の有力者です。40歳の時の子にして待望の男児の誕生です。想像通りに後々の寵愛振りが垣間見られます。

1896年(明治29年)13歳。田辺中学校に進学。一年を経ず中退し珠算学校を経て田辺税務署に勤務。
1901年(明治34年)18歳。「磯事件」(漁業法改正に反対する漁民の権利運動)に加担し、税務署を退職。
1902年(明治35年)19歳。春上京。父の援助により文房具卸売業「植芝商会」を設立。その傍ら起倒流柔術・神陰流剣術を学ぶ。脚気を患い店を従業員に預けて帰郷。10月2歳上の糸川はつと結婚。
1903年(明治36年)20歳。徴兵検査の身長合格基準5尺2寸に足りず不合格となるが、12月の再検査で合格し陸軍大阪第4師団歩兵第37連隊に入隊。
1906年(明治39年)23歳。父の反対により除隊し田辺に帰郷。

詳しいことは判りませんが、この略歴をみるだけでも、税務署員と上京は失敗に終わり、軍人への道も父の反対にあい、将来への不安もあったことでしょう。
夜中に突然飛び起きて井戸水を頭から被る・一日中暗い室内に閉じ篭り祈祷にふける・家人に当り散らす・山中で断食するなど情緒不安定に陥り奇行を繰り返したそうです。

これを見かねた父与六は、息子のために自宅納屋を改造して柔道場を作り、柔道家・高木喜代市を招き指導を依頼します。父からすると中学に進学したものの一年もしないで退学する。税務署では増税反対運動に加担してクビになる。上京して援助してやった商売も一年ももたない。国のために戦う職業軍人にはさせたくない…。子煩悩と言いますか、それらができる立場だったからこそ、息子も自分の好きなことができたのでしょうが。

さて、盛平は柔道に打ち込むようになり、その後は…。

1908年(明治41年)25歳。坪井政之輔より柳生心眼流免許を受ける。
1910年(明治43年)27歳。長女松子出生。

この間はどのような仕事をしていたのかは分かりませんが、そろそろ落ち着きそうなものです。
しかし、屯田兵として北海道開拓に従事していた友人の倉橋伝三郎が帰郷し、その話を聞いた盛平は未開の地を開拓するという壮大な夢に心を揺り動かされ、28歳の時に北海道を下調べのために周ったそうです。

1912年(明治45年/大正元年)29歳。政府の北海道開拓団体募集で、農家・漁民の次三男を主とする54戸80余名の「紀州団体」を結成。盛平は団体長として白滝原野に入植。

白滝の行政としての略歴を…。

1906年(明治39年)04/01 二級町村制湧別村。
1910年(明治43年)04/01 湧別村から分村、上湧別村[二級]。
1919年(大正8年)04/01 紋別郡上湧別村から分村、二級町村制施行し紋別郡遠軽村。
1934年(昭和9年)04/01 遠軽村が町制施行、一級町村制施行し遠軽町。
1946年(昭和21年)08/01 遠軽町から丸瀬布村、白滝村が分村。
2005年(平成17年)10/01 遠軽町、生田原町、丸瀬布町、白滝村の3町1村が対等合併で遠軽町。

さて、盛平率いる「紀州団体」の入植が、白滝村の開基とされていますが、最初の開拓者であったかというとそうではありません。
過去記事があります。中央道路の開削と駅逓 「北見道路編」 :: 2012/12/05(Wed)
白滝近辺にあった駅逓は、遠軽の野上(六号)、丸瀬布の滝ノ下(七号)、上白滝の滝ノ上(八号)。

明治26年4月22日に取扱人中沢兼三郎が、八号滝ノ上駅逓を開設されますが、この八号の取扱人が白滝初の定住者です。この八号は中央道路と湧別川合流地点にあり、八号の沢川付近にありました。明治45年3月に全焼移築。大正4年4月23日に「白滝駅逓」と改称し昭和7年の石北本線開通、昭和8年6月30日に廃止となります。

明治33年には、民営で北見峠にも駅逓(石上藤蔵 石川県出身)ができましたが成り立たず、明治35年に国による駅逓所が出来ました。北見峠駅逓から峠駅逓と名称と場所(上川の上越)を変え、鉄道完成後の昭和10年に廃止されます。その峠駅逓の取扱人だった石上さんが現「旧白滝地区」に入植し、これが白滝開墾のはじめです。

そんな先人がいたからこそ、盛平の「紀州団体」があり、大正2年には奥白滝に宮城団体10戸・福島団体18戸入植。支湧別には秋田団体・奈良団体が入植。その後も山形・長野などから団体入植しているのです。※「石北本線 vol.6 ~奥白滝駅~ :: 2013/09/02(Mon)」

さて、では「紀州団体」はどこに入植したかですが、白滝ホロカ沢付近より上白滝に至る現在の国道333号線に入植し、白滝までの広範囲だったようです。

上白滝に「ゆかりの地」の碑があります。

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入植後は3年連続の凶作でしたが、団体入植という団結心、何より白滝入植の際に父から預かった一万円もの大金がありました。当然交通費や食料費などにも当てられ目減りしていたとは思いますが、大いに役立ったことでしょう。ちなみにネット上に大正5年の指数として698.4(平成18年の指数)÷0.756(大正5年の指数)=923.8倍というのがありました。ざっくりで言うと現在の貨幣価値としては1000万円位でしょうか。白滝には農産物だけではなく原生林の伐木による山稼ぎがありましたので、米や麦を購入し、季節になればフキ・ワラビなどの山菜、ヤマベやイワナなどの川魚が生活を支えたことでしょう。

その後の盛平は、リーダーとして率先して伐木に取り組む傍ら、ハッカ栽培・製材事業・馬産酪農を奨励し、農業・林業・畜産の殖産に務め入植3年目以降は開拓民の生活も好転したそうです。
また、二股地区に商店街をつくったり小学校の開校(大正2年)さらに鉄道建設の請願など村の整備に奔走し、白滝出身初の上湧別村村会議員として当選します。

「二股地区」の位置ですが、国道を上川から丸瀬布方向へ進むと、左手に遠軽町役場・埋蔵文化財センターの先、右折すると白滝インターチェンジ、左折し白滝駅へ続くエリアです。通った時の記憶は、小さな商店街もなく当時を偲ばれるものは何もありませんでした。

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