植芝盛平と白滝 vol.2

   13090307.jpg ※ゴロンとあるのは黒曜石

「植芝盛平と白滝 vol.1」 では、白滝へ至るまでを中心としましたが、後半は白滝での出来事と白滝を去るあたりのお話です。

おさらいのために植芝盛平氏、白滝での略年表を…。

1912年(明治45年/大正元年)29歳。「紀州団体」団体長として白滝原野に入植。
1915年(大正4年)31歳。2月に遠軽で大東流の武田惣角に出会い入門、久田旅館で1ヶ月稽古。1ヶ月後には白滝に私設の道場を提供し修行。
1916年(大正5年)33歳。武田惣角は植芝宅に滞在し教授を行い「秘伝奥儀」の免許を授かる。
1917年(大正6年)34歳。5月23日 白滝に山火事を発端とする大火災が起きる。7月13日 長男武盛出生。
1918年(大正7年)35歳。6月2日 上湧別村会議員選に当選。
1919年(大正8年)36歳。3月 上白滝神社建立に奔走一円を寄附。4月議員を辞職。次男国治誕生。12月「チチキトク」の報を受け、白滝を去る。

わずか8年の間に、こんなに中身の濃い人生はまさに劇的とも言えるでしょう。入植当初の3年間こそ冷害による不作で開拓は困難を極めたとされますが、それは54戸全体としてなのか、個人としてはどうなのか多くの疑問があります。
大正4年には定住の見通しがついたとありますが、同年には私設の道場を提供できるということは、もちろん自宅もすでにあったことでしょう。他の移民家族の住環境はどうだったのか、資料不足で何も見えてきません。

盛平は団体のリーダーとして、多くの仕事をこなしたことでしょう。しかし個人的に私腹を肥やしたり、大地主になりたいとか、そんなことは一度も考えたことすらなかったのではないかと想います。そんな史実のひとつとして…。

二股市街は盛平がつくった商店街だそうですが、上湧別村史(大正9年4月4日発刊)に「大正3年に移り植芝氏は特に自己所有地を相して市街地宅約70戸分を定め希望者に対し無償分譲を行いたり、これすなわち隆盛なる二股市街の起源…」。

ただ結果として大地主になったとしても不思議はないのですが、現時点で謎解きと言いますか、解決できないのが本籍の件です。父である与六の本籍が、明治45年から大正6年まで上白滝に移動してあったそうです。現在では本籍がどうであれといいますか、銀行の融資などでは本籍の記載の無い物が必要とされるくらい本籍はタブーなイメージですが、当時はどのような意味があったのか。息子として、俺が面倒見るからこっちで一緒に住もうというのなら解りますが、入植と同時に父の本籍を移動…。

本籍と言えば思い出すのが、夏目漱石の本籍が一度も訪れたことのない岩内町にあった時期があります。「岩内町史」の「明治二十五年」の項に、岩内町役場戸籍簿の記載があります。
「四月五日文豪夏目漱石(金之助)本籍を、岩内町吹上町十七番地浅岡仁三郎方に移す…(中略)大正三年六月二日東京市牛込区南町七番地へ転籍。」
漱石自身が大正元年出版の「極北日本」序文に、「余は東京の場末に生れたものであるが、妙な関係から久しい以前に籍を北海道に移したきり、今に至って依然として後志国の平民になってゐる」と書いています。これが当時の北海道の大部分は「徴兵逃れ」が出来たからという説やら、家督問題だという説もありますが謎。植芝家も謎の部分が多々あるようですが、大正6年5月23日白滝全域が焼失したとされる大火災も影響しているのでしょうか。

話がやや脱線しましたが、入植からほんの2~3年で自宅や道場を持ち、ましてや商店街構想の実現など、よほど生活が安定していたということでしょうか。他の開拓地と比較するととてもスピード感があります。

さて、大正4年は盛平の人生の中でも大きなターニングポイントの年と言えるでしょう。大東流柔術の武田惣角との出会いがありました。惣角は安政6年10月10日(1859年11月4日)の生まれですから、56歳で31歳の盛平と出会ったということになります。

この武田惣角という人物も様々な逸話が残されていますが、これまた真実なのかつくられたイメージなのか謎が多い人物です。

1915年(大正4年)31歳の盛平は、2月に遠軽で武田惣角に出会いその場で入門を許され弟子入りします。冬期間とはいえ久田旅館で1ヶ月の稽古。この思い入れ方は尋常ではありません。よほど惹かれたものがあったのでしょう。その後も何度か惣角を白滝に招いて講習会も行います。

しかし、この講習会が盛平にとっては金食い虫といいますか、惣角にとっては生きる糧となる関係が続きます。当時、惣角の講習は1週間から10日ほどで、講習料が10円から15円だったそうです。現代の貨幣価値だと既出の「大正5年の指数として698.4(平成18年の指数)÷0.756(大正5年の指数)=923.8倍」では約1万円から1.5万円になりますが、北海道の内陸部としてはもっと高額なイメージだったことでしょう。

しかも、講習料の他に盛平は、師匠である惣角の世話のために、個人的に月300円程度を負担していたそうです。ということは現代では月に約30万円にもなります。かなり裕福な商家ならまだしも、この金銭的負担が後に白滝を去る大きな要因になったようです。

やがて惣角は盛平の家に転がり込み、技の一手何円としつこく金の要求をしたともいわれています。
大火事もどれほどの被害があったのかは謎ですが、その後盛平は上湧別村村会議員に当選するものの、一年足らずで辞めてしまいます。当時を述懐した自声のテープがあるそうです。

「公務の仕事がいっさいできなくなってしまった、自分は。邪魔ばっかりするんです。先々先々自分の行くとこ邪魔ばっかりするもんやから、それでしまいに自分のうちのようになって入りこんできて、私の権利書から私の印鑑を全部とられてしもうた。」事の真偽は判りませんが、本人が語っているのは事実のようです。

盛平が議員を辞職した翌月、惣角は大正8年5月2日、家族共々下湧別から白滝二股市街に転居してきます。その後は白滝を本拠地とし、道内・本州各地に出向き指導にあたったそうです。
盛平はその年の年末に「チチキトク」の電報を受け帰郷したとされています。その際に盛平所有の二股市街の土地と平屋の建物を惣角に譲ったそうです。

ここら辺の経緯も謎だらけです。
もし「権利書から印鑑を全部とられて…」が土地建物の事なら譲ったのではなく、横領あるいは詐欺…立派な犯罪になってしまいます。
盛平は惣角と出会ってから約5年で白滝を去り、生涯二度と白滝の地を踏むことはなかったのです

ではこれで盛平と惣角の関係が途切れたかというと、そうではないところにまた謎が…。白滝を去った後は、故郷から京都の綾部へ一家で移住し大本教に入信。出口王仁三郎聖師の元で専用の道場を構え、柳生流の武器技と大東流の体術を独自に稽古していたそうです。

1922年(大正11年)39歳。当時の大本には陸海軍の軍人も多く出入りし盛平の門人となっていたが、春に惣角が妻子と共に訪れます。盛平は門下の軍人たちと共に指導を受け、9月に「合気柔術秘伝奥儀之事」及び「大東流合気柔術教授代理」の資格を授けられます。これも盛平が呼び寄せたのか、お金がかかったのかどうかは謎です。

元々大東流の「合気」ですが、王仁三郎の提案もあり盛平オリジナルの武術として歩みだし、「植芝流合気柔術」「植芝流合気武道」と呼ばれるようになります。

1948年(昭和23年)65歳。「財団法人合気会」は茨城県岩間の合気苑を本部とし文部省の認可を受ける。正式に「合気道」とし盛平は初代合気道「道主」となる。
1950年(昭和25年)67歳。全国各地の道場を盛平が訪れ指導を行うようになる。
1954年(昭和29年)71歳。合気会本部を岩間から東京道場に移し、本格的な合気道の普及に乗り出す。

戦後は順風満帆とも言える「合気道」の歴史。その発展には盛平の道主としての尽力はもちろん欠かせなかったでしょう。しかし、そんな時にでも盛平にとって白滝はどんな場所だったのかを想ってしまいます。

惣角は、1943年(昭和18年)に青森県で客死。享年84。
盛平は、1969年(昭和44年)に肝臓癌のため東京本部道場同敷地の自宅で死去。享年86歳。

惣角の死後26年間は存命だった盛平。もし確執があったとしても、惣角が亡くなった後も白滝へは足は向かなかった。

団体で移住し苦労を共にした人々のこと…。
長男が誕生した若き日の思い出の地である白滝…。

しかし、1919年(大正8年)36歳の大きな転換期である、父与六の危篤の報。苦労して得た白滝の土地家屋など全財産の行方。帰郷途中の汽車内で知る宗教団体大本の出口王仁三郎。さらに、父与六の死去(享年76)があり、翌1920年(大正9年)37歳に一家を率い綾部に移住し大本に入信。8月に長男武盛(3歳)が9月には次男国治(1歳)を病により相次いで亡くす悲しみ。それらが混沌となって白滝の思い出につながっていたのか、その理由は判りません。

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「ゆかりの碑」に刻まれている内容をピックアップ。

・明治十六年十二月十四日和歌山県西牟妻郡西々谷(現在の田辺)に生まれ、幼少期より神童かと思わせる。
・少年期に入ると、起倒神陰など各流の武道遍歴がはじまる。
・青年期に五十四戸の同志を募り推されて団体長となり、明治四十五年五月紀州団体として、白滝に入植。
・開拓の鍬を振うかたわら団体長として東方西走、議会議員の要職をつとめ不眠不休の日々が続いた。
・大正四年大東流の達人武田惣角に遠軽において初見、その機縁より自宅に招いての練磨。
・大正八年秋、故郷より火急の報を受け意を決して家族共々白滝の地を離れた。
・京都綾部に出口王仁三郎なる鎮魂帰神の偉人いるを知り接見、父の没後再び出口師を尋ねひたすら師事。
・「我即宇宙」の妙諦にめざめ気、心、体の妙理、合気道の創始者となるに至った。
・合気は愛気に相通ずる信念により万有愛護を旗じるしに国内はもちろん世界各地に合気道の普及に努めた。
・昭和四十四年四月二十六日、八十六歳で巨星落つるの感をもって他界。
・同日付をもって生前の合気道創始とその卓越せる普及の功績により、正五位勲三等瑞宝章叙勲。
・合気道が国内外に益々飛躍的発展を見せていることに最大の賛辞を送り、開祖盛平翁がその昔、この白滝の地において率先開拓に汗を流したゆかりの地にこのしるしを建てるものである。

昭和五十八年十一月建立 白滝村長 国松一敏

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この上白滝神社も盛平と深く関わりのあるものです。

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詳しくは省きますが、大正8年3月には神殿の建築工事が開始、同年5月に現在も残る神殿が完成しました。建立の際には寄附世話係を務め、自らも一円を寄附したことが神社内の木札、寄付者名簿の中に記されているそうです。

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面白いと言いますか、これはありなのかどうかですけど、鳥居と神殿の間に鉄道が走っています。
ちょうど特急オホーツクがやって来ました。

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オマケ
現白滝駅のあるエリアも盛平の開拓エリアだったはずです。
土地の登記簿がどうなのかは知る由もありませんが、鉄道が通るとなると線路や駅に必要な土地はポンと寄付しただろうなと思ってしまいますが、真相は…。

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ちなみに、2012年8月18日(土)「合気道開祖植芝盛平翁白滝入植100年記念講演会」が、植芝守央3代目道主を迎え白滝国際交流センターで行われたそうです。

2代目は盛平の三男、植芝吉祥丸(うえしばきっしょうまる 1921年6月27日-1999年1月4日)。
1967年 財団法人合気会理事長に就任。
1969年 合気道二代道主を継承。
1986年 合気道普及発展の功により秋・藍綬褒章を受章。
1995年 春・勲三等瑞宝章を受章。
1996年 財団法人合気会会長に就任。他に国際合気道連盟会長・全国学生合気道連盟会長・財団法人日本武道館理事その他多くの要職を務める。

3台目が吉祥丸の次男、植芝守央(うえしばもりてる 1951年4月2日- )。
財団法人合気会専務理事、本部道場長を経て…。
1999年(平成11年) 吉祥丸道主逝去により合気道三代道主を継承。
2006年11月現在 合気会理事長・国際合気道連盟会長・財団法人日本武道館理事・国際武道大学評議員ほか。

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