小平町 ~旧花田家番屋 vol.2~

正規・非正規と雇用について問題になったりしていますが、厚生労働省のホームページを見てみると派遣労働者・契約社員(有期労働契約)・パートタイム労働者・短時間正社員・業務委託(請負)・家内労働者・在宅ワーカーなど様々な形があるもので、ニシン漁で働いた人々は、どのような雇用形態だったのか。そんなこともふと気になります。

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そもそも北海道へは江戸時代から多くの労働者がニシン稼ぎに渡っていましたが、全体では明治初期で5~6万人、明治20年(1887)には10万人近くになったそうです。大正14年(1925年)調査のニシン労働者約6万5千人の内訳は、地元3割・道内2割・道外5割で、道外者は青森県出身者が最も多く秋田県・岩手県などの東北各地からが多くを占めていたようです。

経営者にとってはより良い労働力をできれば安く使いたい、労働者としてはより良い環境でより高い賃金を得たい、これはいつの世も変わりません。時代によって多少は変化しますが、鰊場の労働者は概ね以下の様な約束になっていたようです。

まずその前に、俗に「出稼ぎ労働者」のことを「ヤン衆=やん衆」と一括りにしているものもありますが、親方や本人がそう呼ぶかというとそれはありません。親方にとってはいかに優れた労働力を得るかが勝負です。労働力の乏しい時代に彼らが居なくては漁どころか網ひとつ立たないのです。各地から集まった老若男女は親しみを込めて「若い衆」と呼んでいたようです。

古い漁場では「また来年頼むな~」「来年は息子も連れてきます」と数代にわたり同じ漁場で親方の世話になるケースも多かったことでしょう。中には地元の娘を連れて田舎に帰るものや、娘婿として独立した若い衆も居たことでしょう。ただ、地元の人間にしてみれば先入観としてあまり良くないイメージは少なからずあったようで、何か事が起きると真っ先に疑われるのが若い衆たちでした。その多くは濡れ衣なのですが、そんな時に「あれやったのヤン衆の誰かだべや…」になるのだと思います。個人的にはアイツ等のような蔑視といいますかヤン衆とはそんなイメージです。

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さて「雇」についてですが、雇用の「雇」一文字で「やとい」と読みますが、これは漁場の開設から製品の倉入までの「始納(しのう)」中の雇用契約を結んだ鰊場の季節労働者のことです。若い衆=雇いの連中とも言えます。

「やとい」の契約は、前年の秋(遅くても正月前)には周旋屋(人材派遣業)から前渡金を受け取り成立します。翌年の3月には簡単な夜具と自前の食料、時には土産を手にニシン漁場へと向います。「網子合わせ(アゴアワセ)」と呼ばれる大量願いを兼ねた顔合わせの祝宴を催した後は、除雪作業や漁具の整備など漁の準備に奔走します。

大安吉日を選び「網下ろし」がとり行われ、親方や船頭をはじめ神棚に向かい豊漁祈願をし、漁夫一同に規則と各自の役割を申し渡します。式が終われば大漁を祈りつつ無礼講で飲み交わします。

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各地から「群来」の知らせが届き始めると、今日か明日かとニシンを待ち構えます。漁や作業の模様はまた別の機会としますが、若い衆たちは当時はそれだけでごちそうであった「白い飯」を腹いっぱい食べ、一所懸命働きました。

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やがて漁も終わりの季節となり、「網子別れ(アゴワカレ)」と呼ばれるお別れの宴が催されます。約束の残りの賃金を清算し(医療費などは本人負担)、合わせて「九一金(クイチキンあるいはクイチ)と呼ばれる現代のボーナスが上乗せされます。この風習は漁家によって夫々で、多い漁場もあれば少ない漁場もあり、さらに帰りの旅費が出たり、土産として干しカズノコや身欠き鰊が支給されることもあったようです。

その報酬額(ほんの一例ですが参考までに)は、明治30年代で30~40円、九一金が30円。正しい貨幣価値は判りにくいものですが、明治30年代で米が1俵3~4円ですから20俵分は稼いだ計算になります。米1俵を現代のやや高額な10㎏5,000円×6で1俵30.000円としますと現代の約60万円。金額は別としても、白い米なんか盆と正月くらいにしか食べられない前提で考えると、1年365日毎日1升の米を炊いても年に547.5㎏。10俵にも満たない計算になります。そう考えると何とも贅沢な生活になったのではないでしょうか。しかも、働きに出る約3か月間は食べる心配もしないで良いのですから、仕事は大変でも働き甲斐があったことでしょう。

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北国の遅い桜が咲き終わるころ、そろそろ帰郷の時を迎えます。子供の顔を想いつつ家族のもとへと急ぐ者、また歓楽街へと繰り出す者も居たでしょう。様々な人々が様々な思いの中、鰊場を後にします。静寂を取り戻した番屋には、永い時を経ても彼らの生き様が沁みこんでいるようです。

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多くの若い衆を支えた「食」。
炊事婦は漁夫の出身地から同行することが多く、年増の女性と助手として若い娘が担当し、繁忙期になると地元の娘たちが手伝うこともあったそうです。

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昭和10年頃の鰊場における食糧費の事業計画として、米・餅米・清酒・味噌・醤油・小豆・素麺・食塩・砂糖…などが見積られています。ちなみに白米は一人一日七合二勺、漬物は一ヶ統(約30人分)あたり大樽で七樽。

この花田の番屋には200人以上もの若い衆が寝起きしていたというのですから、一回にどれほどの米を炊いたのか、漬物樽だけでもどれほどあったのか…。

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副食物代は一人一日、一銭二厘。
どんなオカズだったのか…。少なくとも魚と漬物ばかりではなかったようです。。。

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