小平町 ~旧花田家番屋 vol.3~

今回は歴史のお話です。

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北海道の歴史は、本州各地から見ればかなり新しいものの、明治以降というだけでもありません。特に沿岸部では江戸時代初期から松前藩による「商場(場所)=アキナイバ(バショ)」が設けられアイヌとの交易がはじまりました。

米の収穫のない松前藩は、エリアを決めて上級の家臣に夫々の場所で商いをさせることを許します。これが「商場(場所)知行制=アキナイバ(バショ)チギョウセイ」という蝦夷地特有の制度ですが、そもそも当時の米というのは現代の食料である米とは全くイメージが違いまして、藩としては米を市場に出して現金化し藩の運営や参勤交代の費用を賄うのですが、米の石高が多い少ないで武士としての身分も変わり、つまり米は通貨そのもので武士の格そのものでもあったのです。

ま、上になればなるほど上納金が増えるヤクザの世界と似たような世界です。

要は米が穫れないのだから商売して稼ぎなさいということですが、そもそもは慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状に、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権が認められていたのです。

当初は黒印状の約束を守りアイヌとの交易が主流で、年に一・二度の頻度で米・麹・味噌・醤油・酒・塩・煙草・漆器類・鍋釜・鉄製品・古着類等を船に積み込み場所へ向かい、アイヌの披鯡 (ひらきにしん)・身欠(みがき)鯡・数の子・干鮭(からさけ)・干鱈(たら)・串貝(くしがい=鮑を串にさして乾燥させたもの)・干海扇(ほたて)・鰈鮫(ちょうざめ)皮・昆布・鷹真羽(鷲の羽根)・獵虎(らっこ)皮・膃肭臍(おっとせい)・海豹(あしか)皮・熊皮・熊の胆(い)・鹿皮等と交易し、松前に帰ると近江商人を主体とした商人達に売り、船を仕立てた時の商品代を精算し、知行主はその利益で生活を成り立てていました。

1596(慶長元)~1614(慶長19)年 テシホ場所・ルルモッペ場所が開設。
1634(寛永11)年 松前景広がルルモッペ場所の知行主になる。
1689(元禄2)年 松前藩工藤家が知行主になる。

藩主や藩士の財政が悪化したとされる元禄期頃になると、知行という既得権を持つ家臣たちは、潤沢な資本力を持つ近江商人などから交易用の物資や生活費まで借りての交易となり、資本も技術的にも手に負えなくなり負債がかさみます。そこで交易を商人と共同経営にしたり請け負わすようになりますが、考えてみれば現代の仕組みとそう変わらないということです。

この場所を請け負った者を「場所請負人」とし、商人らに代行させた知行主は一定の「運上金」を得るという制度になります。この仕組みが「場所請負制=バショウケオイセイ」です。
どれくらい儲かったのかが気になりますが、天明6年(1786)に最上徳内が書いた「蝦夷草紙 別録」に運上金の額があり、増毛場所の知行主は下国兵太夫で二百両。天塩場所他の知行主は松前貢で二百二拾両とあります。 幕末から明治初期の頃でさえ、一両=一円=現一万円のイメージですから、かなりの収入だったのでしょう。

1779(安永8)年 工藤家知行地から松前藩領になる。
1807(文化4)年 西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄)となる。
1821(文政4)年 天領から松前藩領になる。

場所請負人は、アイヌとの交易よりさらに利益を上げるためにアイヌを使役し自ら大規模漁業を営みます。その場所請負人が交易場所に建てたのが「運上家」です。漁期には支配人、通辞、帳役、番人などを置きました。80数カ所あったとされる運上家ですが、現在では「旧下ヨイチ運上家」しか残存していません。旧下ヨイチ運上家は場所請負人初代竹屋林長左衛門が嘉永6(1853)年に改築した当時の古図面をもとに復元されたそうです。


さて留萌・小平方面の歴史としては…。

1840(天保11)年 マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民が姿を見せはじめる。
1844(弘化元)年 福山の甲崎久右衛門、オンネオニシカ(鬼鹿)に出稼に来て初めて漁業を経営。
1846(弘化3)年 松浦武四郎が立ち寄る。
1855(安政2)年 松前藩領から天領になる。函館奉行所管轄・秋田藩警護地になる。
1854(安政元)年 福島村の原田(後の西沢)繁次郎が、漁業者を引連れて天登雁村に初めて鰊漁場を開く。
1859(安政6)年 庄内藩警護地になる。
1860(万延元)年 天領から庄内藩領になる。
1861(文久元)年 庄内藩士農職人ルルモッペに移住し、開墾。漁民の越年始まる。
1866(慶応2)年 庄内藩領から天領(函館奉行所管轄)になる。

渡島半島でのニシン漁は、豊漁凶漁を繰り返し不安定な漁業となり、漁師たちは不漁も少なく安定していた積丹・石狩・留萌などへ出稼ぎに行くようになります。これを「追いニシン漁」と言いますが、場所請負人の許可を得て、漁の二割を場所請負人に納める仕組みで、「二・八取(ニハチトリ)」と呼ばれていました。

その後、奥場所と言われる増毛・留萌・苫前等の場所は、殆どが開発されていなかったので、福島の花田伝七・中塚金十郎らが、安政年間以降の場所請負人である栖原六右衞門の同意を取り付け、花田家は鬼鹿(小平町)、中塚家は天登雁(小平町)で鰊漁場を開いたとされています。

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COMMENT 2

あず  2013, 10. 01 [Tue] 02:38

■ チョコ 様

「海の祭礼」読んでみました。…が疲れました。
作者の書きたいスピードに自分の頭がついていきません。

いろいろと受賞されている作者ですが、あまりにも聞きかじりの知識が披露されすぎで、しかもそれらが偏っていたり断定されていたり、また雪や冬に関する描写はまったく違和感をおぼえる部分が多々ありました。

作者は東京の人ですが、北海道の冬を知らない人が書いても、それを知らない人が読む分には受け入れられるかもしれませんが、自分には無理でした。

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チョコ  2013, 09. 29 [Sun] 23:11

こんばんは。
今日のお話、私にはとてもタイムリーでおもしろかったです。よく読む作家吉村昭の「海の祭礼」の最初の章には「場所]「運上屋」[請負人]などの言葉が頻繁にでてきて、当時の様子が描かれているのですが、それぞれの意味や仕組みがよくわかりました。米が獲れなかった蝦夷特有の仕組みなんですね。

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