江別郷土資料館 vol.1 ~遺跡編~

「江別郷土資料館」は旧中央公民館を改築し、平成3年4月10日に郷土資料館として開館されたそうです。



係りの方が説明もしてくださるということですが、丁重にお断りして2階の展示室へ…。

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発掘点数が多いからなのか判りませんが、多くの土器が出迎えてくれます。
こんなレイアウトは結構インパクトがあり、土器だけにドキドキします。

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土器だけでも約400点ほど展示されているそうです。
石狩川流域には遺跡が点在していますが、このエリアは地理的な特性から埋蔵物のポテンシャルが高く、「江別式土器」をはじめ続縄文時代のものが数多く発掘されています。

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遺跡関連の展示内容は、続縄文時代の重要文化財として「江別太遺跡出土品」「元江別1遺跡土壙墓出土品」が中心になっています。

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せっかくの機会なので、「続縄文文化(ぞくじょうもんぶんか)」について簡単に振り返ってみましょう。

続縄文文化は、紀元前1世紀頃から縄文文化を継承して北海道にあったとされています。
学校で習った「弥生・古墳文化」は本州のお話で、北海道に弥生時代はありません。
弥生時代の最大の特徴は鉄器や稲作と習ったような気もしますが、現代ではいろいろな説も登場しているようです…。

少なくとも稲作なんて蝦夷地が北海道になった明治初期ですら試験栽培程度でしかありません。

続縄文文化の前半期(紀元前一世紀~三世紀)は、渡島半島に縄文晩期亀ヶ岡式土器を母胎とする恵山式、道央部に江別式、北見・網走のオホーツク海沿岸に宇津内式、釧路地方に興津・下田ノ沢式の各土器が分布するそうです。

渡島半島の東端にある恵山貝塚では、多様な骨角器や魚形石器が発掘されていて、海を積極的に利用する生活を送っていたようです。伊達市有珠モシリ遺跡では、精緻な彫刻を施したヤスや釣り針・柄頭にクマ・クジラを彫ったスプーンなどが出土しているそうですが、特に九州地方を生息域とするイモガイで作られた連結式貝輪や首輪などが多量に出土しているのが興味深いですね。

恵山式土器は文様や土器器種などに東北地方の縄文晩期である亀ヶ岡式土器の影響が強くみられるそうですが、一方、後北式土器(江別土器)は北海道の縄文土器の流れを継ぎ、遺跡からは豊富な石器・木製品・骨角器などが出土し、墓からは石鏃・コハク玉・管玉などの副葬や、サケなどの骨なども発見されているそうです。

その後の北海道は7世紀になると、擦文文化・オホーツク文化、さらにアイヌ文化へと移行していきます。

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よく見つかったというか、よく残っていたなぁ~。
説明文には1700年前の鮭の漁場ってあるけど…。

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江別式土器のアップ。
底面の尖り方で年代も違うようですが、よく判りません。

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大麻(おおあさ)、読みはタイマではありません。

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大麻元町の大麻3遺跡から縄文時代晩期末(約2300年前)の土器と一緒に土偶2体が背中合わせに重なりあって、ほぼ完全な形で発見されたそうです。2体の土偶は板状で、小さい方は13.3㎝、大きい方は15.4㎝。前後・側面に斜行の縄文があります。

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この黒曜石の人型(ひとがた)は、かなりの技術だと思いますよ。
今年、黒曜石の加工に初挑戦したけど、現時点ではこんなの絶対無理です。イメージで言うとお祭りの露店で「片抜き」を100倍以上難しくした感じかなぁ~。

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こちらも国の重要文化財、「北海道元江別1遺跡土墳墓出土品」です。平成7年(1995)6月15日に指定されています。

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遺跡は、石狩平野中ほどの野幌丘陵の北縁、北側に石狩川の支流旧豊平川が東流。昭和54・55年の道路建設に先立つ調査で、約5,200㎡の範囲から、縄文・続縄文・近世アイヌ期の遺構が発見された。このうち主体を占めるものが続縄文時代の土壙墓で、27基からなる北群と、14基からなる南群の合計41基があるそうです。

内容は…。

深鉢形・壺形等の土器類72個。
琥珀玉を主とした玉類3,669箇。
石鏃(せきぞく=矢じり)・石製銛頭・磨製石斧等の石器類308箇。

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特筆されるのは9基の土壙墓から出土した3,598箇にも及ぶ琥珀玉で、これは三基の土壙墓からの出土がそれぞれ約1000箇ずつと、特定の土壙墓に集中しているとのことです。

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玉類には、他に本州産の碧玉管玉(へきぎよくくだたま)48箇。玉製環(ぎよくせいかん)等の装飾品もある。北海道における碧玉管玉の出土は、本州に近い道南地方に多く見られるが、道央地方でこれだけ多量に出土した例は少ないそうです。

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砂岩系の軟らかい石なら、自宅の電動工具で何とかできそうな気もしますが、それでも想像するだけで気が遠くなりそうです。当時の加工技術とその加工に要する時間って…。

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大好きなジオラマもあります。
これは昭和6年(1931)に当時札幌の小学校教師であった後藤寿一によって発見され、最終的に21基の墳墓が確認され、墳墓は径3~10mの円形あるいは長円形の墳丘に環状あるいは一端が開く馬蹄形に周溝が巡らされているそうです。

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東北地方北部に分布する群集墓と同じ系譜の北限が江別とのことです。
北海道式古墳とも呼ばれるそうですが、誰が何のために…。

その謎を解明するために遺跡発掘は必要なのですが、当時の人々からすると墓荒らしをされているわけです。それはエジプトのピラミッドを「研究」するようなもので、まだ救われるのかもしれません。

しかし、アイヌの民は明治期以降さんざんな目に遭うのですが、副葬品はもちろん記憶に残る人の骨まで目の前で奪われてしまうのです。学術的に必要なのだとか、あるいは金で買うとか、何でもありの時代もありました。しかも、海外の研究者にアイヌ人の骨は高額で売れるとか、特に頭蓋骨がとか…。

もちろん現代の日本では、法律により墓荒らしは無論、故人の遺産は適法に則り分配されますが、それが正しいとする考え方を過去においてどうだったのかを検証する気持ちも必要であると思います。

そんな思いもありつつ誰かの墓から出た物を見て綺麗だなとか、何処から何のためにやってきたのかと想像してしまう自分もどうなのかと矛盾を感じてしまいます。

で、ふと思ったのですが…。

もし現代人が存在しない数千年後の地球があったとして、未来人が現代人の墓の調査をしたら、方形の石の下に何とも小さな陶器類に骨の欠片と少しの焼けた金属しか発見出来ないのかもしれないのだろうなぁと…。

未来人が西暦2000年前後と推測し、日本と言う国があったであろう地域には、おびただしい墓らしきものが発掘され、何とも文化の低い興味も失せる人々が多く生きていた時代となるのでしょうか…。

ま、同時に天皇陵も発掘されて謎が深まるのかもしれませんね。。。

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