夕張メロン ~ 概歴的なお話 vol.1 ~

夕張メロンは誕生から約半世紀を迎えます。

2014年5月23日、札幌市中央卸売市場の初セリでは、ご祝儀価格ではあるものの、なんと過去最高額タイの「秀品2玉 250万円」の値が付きました。

夕張農協の出荷見込みは4,400t。国内はもちろん東南アジアへの販路拡大も模索しているそうです。

何ともスゴイ量+価格ですが、それだけの需要があるということでしょう。
イメージしてください。

「ピンポ~ン! 宅急便で~す」

夏のある日届いたお中元が夕張メロンだったとして、迷惑だという方は日本・海外を問わず少ないかもしれません。
それほど広く認知されている夕張メロンですが、その歴史は山あり谷ありだったようです。

ウリ科キュウリ属の植物であるメロンですが、その原産地は諸説ありますが北アフリカや中近東地方とされています。
栽培の歴史は古く、紀元前2000年頃には栽培が始まったそうです。

西へはヨーロッパに伝わり、現在のメロンの原型が生まれました。一方東へは現在のウリが伝わりました。
日本では弥生時代の遺跡から、マクワウリなどの炭化種子が検出されているそうです。

万葉集には、山上憶良が詠んだ句の中に…。

長歌「瓜食めば 子ども思うほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものを 眼交に もとな懸て 安眠し 寝さぬ」
(瓜を食べれば子どものことを思い出すし、粟を食べればもっと想えてしかたがない。なぜウチに生まれてくれたのかを考えつつ子供を想うと寝られないなぁ。※あず私見)

反歌「銀も金も玉も何せむに 勝れる宝子にしかめやも」
(銀も金も宝石も…、子供と比べるとどうだろう?やっぱり子供が一番の宝だな。※あず私見)

ま、句の解釈は置いといて、万葉の時代に瓜は普通に食べていたようです。

さて、ヨーロッパ系の現在のメロンが日本に入って来たのはいつなのか…。
ピンと来たのは開拓使です。ここら辺のお話は黒田清隆関連から、ケプロンやクラークなど明治初期の北海道開拓と深い関わりがあるものの、そんなお話は後日たっぷりとしなくてはいけませんが、今回は簡単に…。

明治維新以降、さまざまな分野で海外の技術を導入することとなるのですが、同時に北海道の開拓も最重要とされました。農業に関しては、官園(現在の農業試験場)を設置して様々な植物の試験栽培が行われました。

最も早く試験が行われたのが、すでにある程度の開拓が進んでいた北海道南部の函館周辺でした。明治3年(1870)に渡島国亀田郡七重村に七重官園(ななえかんえん)が設置されました。
ガルトネルの租借地を買い戻したいわゆる「ガルトネル開墾条約事件」の跡地に設置されたものです。
※過去記事あります。 「リヒャルト・ガルトネル :: 2011/02/23(Wed) 」

当時、開拓次官であった黒田清隆は、種苗や種畜を北海道に持ち込む前に馴化させるため、明治4年(1871)に東京官園を設置します。
俗に言う「お雇い外国人」のホーレス・ケプロンは、同年その職に就任すると、海外からの種苗や種畜の調達とともに、あらゆる農業に関する建言を行います。
その中に、将来道都と想定する札幌にも官園を設けることを提案し、明治6年(1873)に札幌官園を定めます。
技術指導者としては、エドウィン・ダンらが招かれ、翌明治7年(1874)には根室官園も設置されました。

それぞれの官園では地域実情に合わせた試験と実証を積み重ね、その後の北海道の農業に大きな影響を与えました。

メロンは、明治5年(1872)にアメリカから導入され東京官園で試作し、明治6年(1973)に北海道に渡来し札幌官園で栽培されました。これが日本における公のメロン栽培のルーツと言えるかもしれません。
それ以前に、ガルトネルが…かも知れませんけど。。。

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