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「倉本 聰」とは…。 vol.1 ~ニッポン放送退社まで~

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倉本 聰(くらもと そう)は、「北の国から」をはじめ多くの作品を創作した日本を代表する脚本家・劇作家・演出家です。

「北の国から」のお話を進めるにあたり、まずは作者である「倉本 聰」を少しだけでも知らなくてははじまらないと思います。それはその生き様自体が作品に反映されているのだろうと想うからです。

とにかく作品数が多く簡単に…というわけにはいきません。そこで、「シナリオ作家として独立」「東京時代」「札幌時代」「富良野時代」と分けてみようと思います。※変更するかもしれませんが…。(笑)

「倉本聰 界隈」 というホームページがあります。
ちなみにホームページには書かれていないようですが、本名は「山谷(やまや) 馨」です。

・略歴

昭和10年(1935) 0歳 1月1日、東京・代々木に生まれる。
昭和30年(1955) 20歳 東京大学文学部入学。俳優座スタジオ劇団、劇団「仲間」文芸部に入る。
昭和34年(1959) 24歳 東京大学文学部美学科卒業。ニッポン放送入社。
昭和35年(1960) 25歳 「パパ起きてちょうだい」(日テレ)、倉本聰の名でデビュー。
昭和38年(1963) 28歳 ニッポン放送退社。シナリオ作家として独立。

・テレビドラマ脚本 ※連続ドラマ

'59 「パパ起きてちょうだい」「お母さん 七つの子」
'61 「教授と次男坊※」
'63 「現代っ子※」「ぼうや※」

一方、正確かどうかは別にして「Wikipedia」の情報も参考にしてください。

戸籍上は1935年1月1日(実際は1934年12月31日)
※エッセイ集『北の動物園』(扶桑社、2004年)「生年月日」の章を参照 72頁

東京府(現・東京都)出身。
父・山谷太郎(1899年 - 1952年)は春潮という俳号を持つ俳人で、『野鳥歳時記』(1943年)を残した。両親はともにクリスチャンだった。
※『獨白 2011年3月』p142

戦時中は山形市上山市や岡山県金光町に疎開。
※『獨白 2011年3月』p130 『獨白 2011年3月』p129

このうち、上山への疎開は政府が実施した学童集団疎開によるもので、都会育ちの倉本は大きなカルチャーショックを受けた。東京に帰りたいと考えた倉本は仮病を使って数か月後には東京に戻ることに成功した。
※『獨白 2011年3月』p130

この体験は、『北の国から』の最初の連続シリーズにおいて、純が東京に帰りたがって起こす行動のヒントにしたと記している。
※『獨白 2011年3月』p129

また、金光へは1945年4月から1年間、一家6人で疎開していた。
※倉本 聰さんが金光を訪れる 倉本 聰金光ファンの会 笠岡放送

豊島師範附属小学校(現・東京学芸大学附属小金井小学校)から麻布中学校・高等学校を経て東京大学文学部美学科卒業。

1959年、ニッポン放送に入社。ディレクター・プロデューサーを担当するが、ニッポン放送在籍時に『パパ起きてちょうだい』(日本テレビ)で脚本家デビュー。当時は夜10時に会社を出て帰宅してから脚本を書き午前4時頃に就寝、2時間ほどの睡眠で出社する毎日だった。
※週刊朝日 2012年12月28日号

1963年にニッポン放送を退社。退社のいきさつについて倉本は、後にインタビューで「ニッポン放送には内緒でペンネームを使って脚本家をやっていた負い目から、ニッポン放送で担当していた番組には(脚本家同士として顔見知りである)若手の脚本家ではなくベテランの脚本家ばかり起用していたが、それを上司に咎められたうえ『最近倉本って若手が出てきたから一度会って来い』と命じられ、そろそろ潮時だと思った」と語っている。
※『東芝スーパーサウンドグラフィティ The History of the Radio』(ニッポン放送、1989年1月1日)

また他のインタビューでは「(2時間睡眠の生活を)2年も続けると「もたない」と思いましたと語っており、掛け持ちを続けるのは体力的にも限界だったことを示している。

岡田茂の自伝では、倉本がニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない、と東映に籍を置かせて欲しいと中島貞夫を介して岡田に頼んできたと書かれている。
※『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、角川書店、2004年、165-166頁

さぁ~概ね一般的にはこんな感じですが、イマイチ伝わらない感じがしませんか。
個人的には、こんな文字の羅列を見せられてもと思います。
そこでもう少し掘り下げてみようかと思います…。
ネットの端っこにあるものや、インタビューや本などから拾い出した「倉本聰」の実像が伝わればと思います。

まずは生い立ちについて。
東京・代々木に生まれるとありますが、父親(太郎)は「日新書院」という出版社の社長。
その父親は水原秋桜子門下で俳句をやっていて、日本野鳥の会の設立メンバーでもあった。
5人きょうだい(3男2女)の次男であるが、姉と兄は腹違い。
3歳まで住んでいた代々木駅前の生家と次に住んだ杉並区の家は大豪邸だった。

5歳くらいには字を憶えたが、父親に就学前から宮沢賢治を週に一本音読させられ、読書感想文を書かされた。
これが後に「文章のリズム感」が武器になったと回想。

小学校時代、山形に学童疎開していた頃、クリスチャンである父親が1942年1月「信濃町教会(東京都新宿区)」の月報に「決戦下に於ける伝道」と題し投稿。「戦争は罪悪である」というくだりが問題となり、当時の特別高等警察(特高)に逮捕される。戦後、父親の出版事業が傾き生活が苦しくなる。

父親同様、教育熱心だった母親が急に部屋に入ってくると勉強しているふりをしていた。
その癖は大人になっても抜けず、今でも小説を読んでいる時に妻が部屋に入ってくるとつい原稿を書いているふりをしてしまう。

中学時代は演劇部。中1の時、学童疎開体験を小説に書いた。
高校時代は映画に熱中する。自分でシナリオを書いて麻布中学・高校時代の同級生で銀座山野楽器の息子との縁からテープレコーダーを使って音声ドラマを制作。
麻布中学・高校時代の同級生には堤義明もいた。現在も富良野プリンスホテルとの強い関わりがある。

大学浪人時代、同居していた叔母が老人性鬱病で包丁で首を突いて自殺を図って血の海の中に倒れているのを発見した。その部屋にはその後頻繁に幽霊が出た。

浪人中はよく酒を飲み、役者として演じてもいたし脚本家として書いてもいた…だから2年もかかってしまった。
2浪して大学に入学。大学では俳優座に所属し、プロとして恥ずかしいことはできないと書く方に専念。

麻布中学を卒業する前年に親父が病死し、母と弟妹の生活を面倒見なくてはいけないため、定収入を得てしっかり生活していかなければという堅気志向があり劇団には残らなかった。

フジテレビ開局の時に、フジテレビ・ニッポン放送・文化放送の3社合同のマンモス入社試験があり、フジテレビに行きたかったもののニッポン放送に入社。

ニッポン放送の初任給は1万2360円。6本も番組を持たされて、安月給でよく働く。
担当番組の構成作家が遅筆でしびれを切らしていたところ、ある先輩から「台本を代わりに書いてアルバイト代を頂戴したらいい」とささやかれる。この内職により少しの収入を得、当の作家に見込まれて「パパ起きてちょうだい」というテレビドラマのシナリオを初めて書くことになる。

会社には内緒で、アルバイトとして「倉本聰」名義で「日本テレビ」で活動を始める。

倉本聰というペンネームの由来は、父親の出身地である岡山県にある実家の屋号が「倉本」。
妹の名前が「聰子」。特に大きな意味は無く両方からとっただけ。

その後、「倉本聰」はどんどん売れていき、「現代っ子」というドラマは30%を超える視聴率。毎晩10時くらいまで会社で働き、家に帰ってシナリオを書き寝るのは朝方4時頃。会社員だから8時半には出社しなければならないので睡眠時間が2・3時間の生活を2年ほど続ける。

そんな時に本業であるニッポン放送の上司にベテランの脚本家ばかり起用していないで新人を…と咎められる。
「最近倉本って若い作家がいるから一度会って来い」と命じられ、本人は3時間ほど喫茶店で時間をつぶし、「たいしたもんじゃない」と報告。

さあぁ~てと、ニッポン放送までのエピソードはこんなところでネタ切れですが、もし新しいお話があれば追記していきましょう。

ここまでのお話しでも、「北の国から」の人物設定にハハァ~ンと想えるような経験をされているような気がしますが…。

さてさて、ニッポン放送は4年で辞め、独立することになります。
28歳の「倉本 聰」。
次回は、東京時代の活躍から札幌へのお話しです。

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COMMENT 2

あず  2015, 03. 05 [Thu] 22:17

No title

■ チョコ 様

新しいカテゴリーバレマシタネ。
ま、それほど力が入っているという事です。(笑)

倉本聰が、何を考え何を伝えたいのか…。
売れる売れないも含め何をしたのか、なぜ北海道だったのか、なぜ富良野だったのか。

そんな素朴な疑問を解消するための作業。
それらをどのように伝えられるかは暗中模索しています。

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チョコ  2015, 03. 05 [Thu] 08:25

No title

おはようございます。
新しいカテゴリーが作られましたね!
ドラマは様々な要素から成り立ちますが、まずは脚本家ですね。
私が見てよかったなと思うドラマの脚本家はたいてい倉本聡と同世代の人が多いです。
自分が年をとり、若い世代の人の作るものについていけなくなっているのでしょう。
北の国からのスペシャルを何話か見ただけなんですが、良かったなあと感じました。富良野の風景がまた見る者の感動を更に高めるのでしょうね。
しかし、別の受け取り方をする人もいるでしょう。
あずさんが、客観的に検証して書いてくださるものを楽しみにしています。

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