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「倉本 聰」とは…。 vol.2 ~独立後 東京・札幌時代~

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■ 東京時代

ニッポン放送は4年で辞め、独立することになった28歳の「倉本 聰」。

ホームページの略歴には…。

・昭和38年(1963) 28歳 ニッポン放送退社。シナリオ作家として独立。
・昭和46年(1971) 36歳
  「おりょう」(CBC)日本民間放送連盟賞最優秀賞受賞。
・昭和47年(1972) 37歳
  「風船のあがるとき」(HBC)日本民間放送連盟賞優秀賞受賞。
  「平戸にて」(RKB毎日)放送連盟賞受賞。
  「ぜんまい仕掛けの柱時計」(NHK)芸術祭最優秀賞受賞。
・昭和48年(1973) 38歳
  「祇園花見小路」(CBC)民間放送連盟賞受賞。
・昭和50年(1975) 40歳 「6羽のカモメ」、「ああ!新世界」ギャラクシー賞受賞。
・昭和51年(1976) 41歳
  「前略おふくろ様」(NTV)ゴールデン・アロー賞、毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞受賞。
  「うちのホンカン」(HBC)毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞受賞。
  「幻の町」(HBC)芸術祭優秀賞、芸術選奨文部大臣賞受賞。
・昭和52年(1977) 42歳 富良野へ移住。

テレビドラマ脚本 ※連続ドラマ

'63 「現代っ子※」「ぼうや※」
'64 「0戦はやと(アニメ)※」「あなたはタバコがやめられる」
'65 「チコといっしょに」「勝海舟(MBS)※」「青春とはなんだ※」「レーサー※」
'66 「千姫※」「ぼくの母さん※」「これが青春だ※」「円形ベッド物語」
'67 「文五捕物絵図※」「太陽野郎※」
'68 「五重塔」「恋しかるらん※」「あひるの学校※」
'69 「守ルモ攻メルモ※」「犬と麻ちゃん※」「颱風とざくろ※」「かきの沈黙するとき」
'70 「マイホーム'70※」「わが青春のとき※」「砂の城※」「君は海を見たか※」「男たちのブルース※」
'71 「2丁目3番地※」「涙の河をふり返れ ~艶歌より※」「ひかりの中の海※」「舷燈」「冬の華※」「おりょう」「挽歌※」
'72 「3丁目4番地※」「風船のあがるとき」「氷壁※」「平戸にて」「おはよう※」「赤ひげ※」「父ちゃん」「田園交響楽」「ぜんまい仕掛けの柱時計」
'73 「ガラス細工の家※」「祇園花見小路」「白い影※」「ばんえい」「ぶらり信兵衛 ~道場破り~※」「聖夜」
'74 「勝海舟(NHK)※」「りんりんと」「6羽のかもめ※」

映画脚本

'65 「北国の街」
'66 「旗本やくざ」「帰ってきた狼」「涙になりたい」「涙くんさよなら」「私、違っているかしら」「遥かなる慕情 星のフラメンコ」「おゆきさん」
'67 「北国の旅情」「陽のあたる坂道」「君が青春のとき」「ザ・スパイダースのゴーゴー向う見ず作戦」「'68 ザ・スパイダースの大進撃」「昭和元禄 TOKYO 196X年」
'69 「青春の鐘」
'71 「君は海を見たか」


独立後は連続ドラマを中心に各放送局のものを書いています。
まさに売れっ子脚本家です。略歴をみると売れっ子脚本家が42歳で富良野へ移住して悠々自適の生活。
そして「北の国から」が大ヒット。そんなイメージの方が多いと思います。
しかし、略歴には「NHK問題」と札幌時代が見えてきません。

・「Wikipedia」より引用
東京でフリーの脚本家となったが、NHK大河ドラマ『勝海舟』制作に際し、脚本家の演出関与の是非をめぐる問題がこじれたことで嫌気がさし、脚本を途中降板。1974年6月、取材を受けた週刊誌『ヤングレディ』の記事がNHKを攻撃する内容に変わっていたので、最終稿まで確認して記事は修正されたが、広告の見出しが「倉本聰氏、『勝海舟』を内部から爆弾発言」と修正されぬまま出てしまったことがきっかけだった。当時の制作局長には軽率を謝罪したが、20 - 30人からつるし上げられたという。
※『愚者の旅』(理論社、2002年)
※NHKとはこのトラブルから20年以上絶縁状態にあったが、1999年の『玩具の神様』で復帰した。

その日に千歳空港へ飛び、そのまま北海道札幌市に転居。
※「時代を駆ける:倉本聰:SOH KURAMOTO(1)」 『毎日新聞』 2009年11月16日、13版、5面。
※この移住に際しては、向田邦子から「あんたバカなことおやめなさい。東京を離れたら仕事なンて来ないわよ」と説教されたという(『獨白 2011年3月』p14)。倉本は当時を振り返って「仕事はもうどうでもよくなっていた」と述べている。

■ 札幌時代

・昭和49年(1974) 39歳 北海道札幌市に転居。
 東芝日曜劇場(TBS系) 第926回『りんりんと』(1974年、北海道放送)
 テレビドラマ 「氷壁※」「祇園花見小路」「大河ドラマ『勝海舟』(1974年、NHK)」「『6羽のかもめ』(1974年 - 1975年、フジテレビ系)」

・昭和50年(1975) 40歳 
 「6羽のカモメ」、「ああ!新世界」ギャラクシー賞受賞。

 東芝日曜劇場(TBS系) 第947回『ああ!新世界』(1975年、北海道放送)
 テレビドラマ 「平戸にて」「白い影※」「りんりんと」「『うちのホンカン』シリーズ(1975年 - 1981年、北海道放送)」「『あなただけ今晩は』(1975年、フジテレビ系)」「『前略おふくろ様』(1975年 - 1976年、日本テレビ系)」
著書 あなただけ今晩は 星の世界の夕子(立風書房、1975年)

・昭和51年(1976) 41歳
 「前略おふくろ様」(NTV)ゴールデン・アロー賞、毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞受賞。
 「うちのホンカン」(HBC)毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞受賞。
 「幻の町」(HBC)芸術祭優秀賞、芸術選奨文部大臣賞受賞。

東芝日曜劇場(TBS系) 「第1000回『幻の町』(1976年、北海道放送)」「第1040回『ひとり』(1976年、北海道放送)」
テレビドラマ 「『大都会 闘いの日々』(1976年、日本テレビ系)」「おはよう※」「ばんえい」「6羽のかもめ※」「あなただけ今晩は※」
著書 「倉本聡テレビドラマ集 1-2(ぶっくまん、1976年-1977年)」「うちのホンカン(テレビドラマ集)」


39歳の倉本聰は、NHKの大河ドラマ「勝海舟」を書いていましたが、なんと途中降板してしまいます。
これについてインタビュー番組では、若かったし生意気だった…。
NHKとの喧嘩の大本は、渡哲也が病気で松方弘樹に変わったことらしいのですが、本読みの時に居ることが心外だと演出家ともめたらしい。
NHKはアイツはダメだと代理の作家を立てていた…。

突然札幌へ来てしまうのですが、意識も無く記憶も無い。気が付いたら札幌にいたと言う。
なぜ北海道だったかについては、「ある人に敗北と言うでしょ、敗れたら北へ行くのですと…」。

北海道放送の親しいプロデューサーに連絡を取り 中村屋という小さい宿に宿泊。
(家に転がり込む話も…) 

札幌では毎晩4時まで飲んでいた。まったく利害関係のない人達と仲良くなる。
北海道の人達は「野党精神」があるので守ってくれる。

NHKから貰っていた脚本料の前渡金について、返せとは言われなかったけど300万くらい返した。
「スッカラカンになっちゃったけど、ケジメはつけないとね」

かみさんから電話が来て「貯金が7万円しかないわよ」と言われたのが3か月後。
暮らせないのでタクシーの運転手をやろうと思ったが、飲み仲間から「あんたの顔はトラックに向いてる」と言われる。
豊平の運転試験場で免許も取り、さぁ明日からというタイミングで、フジテレビが見つけ何か書けと言う。

テレビの悪口を書いても良いかと聞くと、何でも良いと言う。しかも、書く前に50万貰う。
この金は有り難かったと、飲み代のツケを返して、返しきれなかったけど…、店は増えたけど…。

NHKを降りたので「倉本聰」の名前は使えない。そこで「イシカワ トシコ(※漢字だろうが判らない)」のペンネームで書いたのが「六羽のかもめ」。
これが「ギャラクシー賞(月刊賞)」を受賞してしまう。

実は「イシカワ トシコ」というのは、渡哲也の奥さんの旧姓。授賞式に出てくれと奥さんに頼んだが怒られる。

札幌には2年半居たが、札幌は小さな都会、肝臓に悪い街。
こんなに豊かな生活が、いつまでも続かないと不安になる。

もっと田舎での生活を考え、その第一候補は富良野ではなく「美国」だった。
見晴らしの良い3000坪の土地を買いかけたが、岩盤のため水が出ないので止める。
もし美国だったら「北の海から」だったかもしれない。

富良野というのは聞いたことも無かったが、札幌の炉辺屋で隣の人が「文化村構想」を知っているか…、がきっかけとなり富良野への移住を模索する。


まぁ~インタビュー番組から拾い出したので多少はどのような生活だったのか想像してしまいますが、つじつまが合わなかったりネタのようなお話もあります。
演出や脚本のプロですから、どこまでが本当の事なのかは判りません。(笑)

ただ、ネットのどこかに「1974年(昭和49年) 39才 母死去」という文字がありました。
もしこれが本当なら、何かしらのキッカケになったのかもしれません。

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