松浦武四郎踏査之地碑 美深(びふか)町



幕末の探検家である「松浦武四郎(1818~1888)」は、28歳から6にわたり、蝦夷地を調査しました。
全道各地に、「ゆかりの地」「記念碑」「案内板」などが設置されています。

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天塩川流域を河口から上流の士別市上士別辺りまでを往復し、後に「天塩日誌」として出版されますが…。
ヲクルマトマナイ(美深町恩根内)に住んでいたエカシテカニの家へ泊まった際に武四郎が詠んだ歌が刻まれた歌碑があります。

ゑみしらは
 筍にもる飯も
  古の
さまをつたへて
 葉椀にぞもる

かきならす五の
  緒ごと音さえて
千々の思いを
 我も曳きけり

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松浦武四郎踏査之詩碑 説明文
 松浦武四郎は、文化15年2月6日(1818)三重県一志郡須川村(現三雲町)で、松浦圭介の
四男として生まれる。16才の時から諸国を遊歴、見聞を広め探検家としての力量をみがき、
弘化2年(1845)28才の時から蝦夷地北海道の探検が始まり、その後6度に亘って踏査し
ている。明治21年2月10日(1888)東京神田の自宅で、71才の生涯を終えるまで、探検家、
地理学者、著述家、俳人等として活躍し、蝦夷地北海道の全容はもとより、ピウカ(美深町)
の地名や、テッシ(天塩川)の語源発祥の地を、書き著した日誌や地図等により天下に紹介
した人である。
 武四郎が天塩川及び内陸部を調査したのは5度目の時であり、安政4年(1857)旧暦の
6月9日、アイヌの人4人を道案内とし、2艘の丸木船で天塩を出立した。当時の記録を
「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」「天之穂日誌」から見ると、6月13日、ヲクルマトマナイ
のエカテシカニ(家内12人)の家に一泊している。町内では翌日、ヘケルル(仁宇布川と
天塩川の合流点付近)に野宿、さらに帰路24日エカシテカニの家に泊まっている。
この一家の様子は、「天塩日誌」や「アイヌ人誌」などで紹介されているが、手厚い
もてなしをうけた謝礼として、この地のアイヌの生活の様を詩にして2首おくっている。
 和人として初めてこの地を踏査した武四郎の偉大な功績を讃え、美深の開拓が始まって
100年を記念し、町の文化史跡としてここに詩碑を建立する。

平成10(1998)年10月10日   美深町長 岩木 実

場所は、美深町の「びふかアイランド」内、びふか温泉正面にあります。

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北海道 上川総合振興局のホームページに、その他の「武四郎関連の碑」などの説明があります。
「てっし散歩 - 松浦武四郎の足跡」

それにしても、毎回「松浦武四郎」のことを書くと想うのですが…。
もしも明日、旭川から自動車で天塩の河口まで行き、寄り道の内容にもよりますが一日あれば帰って来ることができます。
しかし、現在のように道路すらない時代に天塩川を遡ること約二週間。下りでも約一週間…。
もちろん、現在でも川をカヌー、或は道路を歩いてと考えたらそれなりの時間が掛かるだろうけど、そこで見えてくるものはまったく違うと思います。

話は変わりますが、北海道における功労者って誰なのか?
明治維新後に国の莫大な予算をバックに北海道の開拓、と言う切り口もあります。
しかし、その開拓の元にあるのは、松浦武四郎が足で調べた知識あってこそです。

武四郎は、役人として幕府に調査報告書を提出した時代もありますが、後に読み物として地域ごとの紀行文、「北蝦夷余誌」「後方羊蹄日誌」「石狩日誌」「久摺日誌」「十勝日誌」「夕張日誌」「納沙布日誌」「知床日誌」「天塩日誌」「東蝦夷日誌」「西蝦夷日誌」…。

もしも、時を経て同じルートを同じように体験し、当時は無かった画像や映像で再現するとして、どれほどの時間と予算が必要なのか…。想像するだけでも気が遠くなりそうですが、「北海道」の名付け親でもある武四郎について、予算が10億もあれば映像で残すことが出来ないでしょうか。

映画でもテレビドラマでも良いです。バブル期の年末ドラマはそれくらいの予算であったと思います。
そんなことは商売として無理なのであれば「北海道」や「各市町村」が血税を惜しまずスポンサーになっても良いくらいの人物です。

ま、「国」が得意の建前として、歴史上の人物を知ることは観光と地域の活性化…、みたいな予算を組めば全国であっという間に進む感じですけど。

とりあえず、NHKローカルでも良いから、そんなシリーズを見てみたいな。(笑)

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