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小平の松浦武四郎 2015年夏



今年も、アイヌ文様の陣羽織を着た松浦武四郎さんにご挨拶。

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それにしても、毎回想うのは…。
松浦武四郎という人物は、北海道においてどれほどの距離を移動したのか。

「JICE」
建設大臣の諮問機関「建設技術開発会議」の建議を受け、民間拠出金による基金を基に昭和48年6 月30日、建設大臣の許可を受けて「財団法人国土開発技術研究センター」として設立。平成12年(2000年)12月「財団法人国土技術研究センター」に改称し、平成25年4月1日より、一般財団法人。…という何とも訳の分からない役人臭のする大人の事情的な組織があります。

そのサイトに、日本の南北の長さ(最南端・沖ノ鳥島から、最北端・択捉島までの緯度の差)は2787km。
東西の長さ(最東端・南鳥島から、最西端・与那国島までの経度差)は約3146km。
※あくまでも直線距離という事です。

そうなると気になるのが北海道をグルっと回るとどれくらいの距離になるのか。
国土交通省河川局のサイトに、海岸統計の北海道本島分がありました。
なんと、海岸線距離は3062kmとあります。
※提供:海上保安庁 第一管区海上保安本部

という事は、日本の国土の南北・東西距離と、北海道一周の距離はほぼ同じと考えても良い程度の誤差でしょう。

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以前にも書いたかもしれませんが、松浦武四郎は計6回北海道…、当時の蝦夷地を移動しています。
「おさらい」しておきましょう。

平成27年6月24日(水)放送の、NHKの「歴史秘話ヒストリア」では、何とも違和感のある部分がありました。

・1843年(天保14) 長崎でロシア南下の危機を知り蝦夷地を目指す。26歳
・1844年(弘化元) 9年ぶりに実家に帰るが、父母はすでに亡くなっていた。
※この年、蝦夷地を目指し青森鰺ヶ沢まで行くものの、松前藩の領地「蝦夷地」へ渡るには厳しい取締りがあり断念。27歳
(ヒストリアではすんなりと蝦夷地へ渡りハイキングのように歩いていますが…) 

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・1845年(弘化2) 第1回蝦夷地探査。商人和賀屋孫兵衛の手代に身を変え、函館から太平洋側の海岸線を歩いて知床岬まで行き、そこに、「勢州一志郡雲出川南 松浦竹四郎」などと記した標柱を建て、函館に戻る。28歳

・1846年(弘化3) 第2回蝦夷地探査。松前藩医西川春庵の下僕「雲平」として、日本海側からオホーツク海を南下し知床まで、さらに樺太(サハリン)の南部までも調査。29歳

・1849年(嘉永2) 第3回蝦夷地探査。函館から船で国後島・択捉島へ渡る。32歳

お役人として…。

・1856年(安政3) 第4回蝦夷地探査。北海道ほぼ一周と樺太。39歳
・1857年(安政4) 第5回蝦夷地探査。内陸部石狩・上川・天塩。40歳
・1858年(安政5) 第6回蝦夷地探査。北海道全ての海岸と内陸部。十勝・阿寒・日高。41歳

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ここ小平へは、第2・4・5・6回の計4回立ち寄っているそうですが…。
ふと疑問があります。それは年齢の事ですが6回目だとしても41歳でしょ?碑文には…。

松浦武四郎翁の像

 北海道の名付け親 松浦武四郎翁は、 文政元年(1818)伊勢
国川村(現 三重県三雲町)に代々郷士であった松浦家の四子と
して生まれる。

 翁は27歳の春、蝦夷地探検を発起以来6度に渡り蝦夷地を案
内のアイヌの人々と踏査し、詳細で実情をあますところなく書き
記された地図・絵図・記録は高く評価され、探検家・研究者とし
て、その功績は偉大である。

 翁の身長は4尺8寸(1m45cm)、足の大きさは24cm
と小柄ながら、その旺盛な精力と知識欲により未開の荒野を踏査
・探検し、当地へも4度に渡って訪れ、鰊漁場の賑わいをきわめた
往時の鬼鹿の歴史を詩に残している。

 松浦武四郎は、社会科学史上・文化史上に輝く燦然たる偉人で
あるとともに北海道の史実を証するものとして、今もなお道民の
心のなかに生き続けている。

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「翁」って何だよって感じですが、昔の人=高齢ってイメージなんでしょうか。
なぜ若き日の松浦武四郎の姿にしなかったのか、意図が解りません。
誰が決定したのでしょう。

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もし、自分に決定権があるとしたら、がむしゃらに北へ向かうイメージの像にしたなぁ~。
陣羽織なんか、風で裾が翻っている感じですね。

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