ビート(甜菜)

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調べてみると…。

ナデシコ目 アカザ科 フダンソウ属 地中海沿岸原産 二年生の植物
学名は、Beta vulgaris ssp. vulgaris var. altissima
和名は、テンサイ(甜菜)とか、サトウダイコン(砂糖大根)
英名は、Sugar beet

ナデシコの仲間だったなんて…。花を見た記憶が無いけど咲くよなぁ~。どんな花なんだろう。。。

過去記事にも 「甜菜」 関連があります。
以下Wikipediaからの抜粋ですが…。

寒さに強く、寒冷地作物として中から高緯度の地域で栽培されている。サトウキビとならんで砂糖の主要原料であり、根を搾ってその汁を煮詰めると砂糖がとれる。葉と搾りかす(ビートパルプと呼ばれる)は、家畜の飼料として利用される。全世界の砂糖生産量のうち、約35%を占める。

日本では、北海道を中心に栽培されている。テンサイから作られた砂糖は甜菜糖とよばれ、国内原料による日本の砂糖生産量の約75%、日本における砂糖消費量の25%を占める。

日本における甜菜糖業は、1879年に官営工場が北海道内2箇所(現在の伊達市および札幌市)に建設されたことに始まる。これらの工場は1901年には閉鎖されたが、1919年に北海道製糖(現 日本甜菜製糖)が帯広市郊外に製糖工場を建設、その後、ホクレン農業協同組合連合会と北海道糖業を加えた2社1団体体制で現在に至る。

日本甜菜製糖 株式会社 

略称は「日甜(にってん)」または「ニッテン」。
『すずらん印』ブランドの砂糖を製造販売している。社名にもある甜菜(ビート)を原料とした製糖が主力である。その他、甜菜栽培の為に開発されたペーパーポット(紙製で筒状になった作物移植用集合鉢)、製糖の際の副産物である糖蜜からイーストを生産するなど総合的な商品開発を行っている。

明治政府の北海道開拓の中で近代的な基幹産業の一つとして位置付けられていた甜菜を原材料とする製糖業は、原材料と製糖工場の双方共に軌道に乗らず明治時代の内にいったん途絶えていた。

ところが、第1次世界大戦の勃発によって砂糖価格が急騰したため、明治の元勲松方正義の子息松方正熊帝国製糖社長が北海道での製糖業の振興に取り組んでいた父の遺志を継ぐ形で1919年(大正8年)に北海道製糖を設立し、これとは別に翌年の1920年(大正9年)には山口清太郎が社長を務める(初代)日本甜菜製糖が設立されるなど甜菜を使った製糖業の復活への取り組みが始まることになった。

後に合併して当社=(2代目)日本甜菜製糖となる両社の内、北海道製糖は十勝国河西郡大正村(現帯広市稲田町)の一角に後の帯広工場を建設し、(初代)日本甜菜製糖は十勝国上川郡人舞村(現清水町)の一角に後の清水工場を建設して製糖に乗り出すことになった。この両工場は偶然にも日産約540tとほぼ同規模の生産能力であった。

明治期の失敗要因として原材料の甜菜の栽培面積が過小であったことやその輸送手段が不十分であったことなどもあると考えた両社は、北海道製糖は十勝鉄道、(初代)日本甜菜製糖は河西鉄道という子会社の運営による原材料輸送を主眼とした鉄道網を2社合計で100㎞を超える規模で敷設すると共に、その沿線などで自社農場および委託栽培を行って生産を軌道に乗せようとした。

なお、この原材料の運搬を主眼に敷設された鉄道網は旅客輸送も行っており、地域住民の足として通学などに利用されていた。こうした努力にもかかわらず、天候不順の影響もあって北海道製糖の初年度の生産量は242tと一日の生産能力の半分以下に留まり、もう一方の(初代)日本甜菜製糖は業績不振から創業4年目の1923年(大正14年)には明治製糖(現・大日本明治製糖)に吸収合併されて消滅することになるなど、その復活の出だしは順調にはいかなかった。

しかし、その後は北海道開拓の一環として寒冷地に向く甜菜の栽培が奨励されて北海道製糖の帯広工場と明治製糖の清水工場の2工場のみでは処理しきれ位ほど生産が増大したため、北海道庁の指導の下で明治製糖が上川管内士別町(現士別市)に、北海道製糖は釧路管内標茶村(現標茶町)にと各々工場の増設を行って1937年(昭和12年)には製糖量が40,000tを突破するところまで成長を遂げた。

もっとも、その後は日中戦争の勃発によって軍需が優先された結果として肥料不足が深刻になって原材料となる甜菜の栽培量が激減して大正時代並みに戻ってしまうようになり、この甜菜製糖事業は再び苦難の時代を迎えることになった。

その後、戦時体制の流れの中で企業統合が進められることになり、1944年(昭和19年)に北海道製糖が明治製糖の傘下に入って北海道興農工業に社名を変更して甜菜製糖事業は1社に集約されることになった。

北海道興農工業は帯広工場と磯分内(標茶)工場、士別工場の3つについては甜菜製糖事業にあて、清水工場については軍の命令で航空燃料用ブタノール工場に転換する作業を進めていたが、戦争が終結したため実際の転換は行われずに終わった。

北海道興農工業が1947年(昭和22年)に社名を(2代目)日本甜菜製糖に改称。

戦時統合により、日本国内における甜菜製糖事業を一手に引き受ける独占企業となっていた当社は、自由経済への移行に伴って輸入品との競争にさらされる危険を避けるべく、甜菜の政府買い入れを定めた立法措置の確保に乗り出した。

この道内の関係者を巻き込んだ運動が功を奏して北海道選出の衆参両院議員全員による「甜菜生産振興臨時措置法」の法案提出が実現し、可決・成立に漕ぎ着けるなど政治力も活用して経営基盤を固めた。

こうした立法措置もあってその後は製紙業やセメント製造業などと並んで「三白景気」と呼ばれた製糖事業の繁栄の波に乗り、1957年(昭和32年)からのわずか5年間で道内各地に6つの工場を新増設して9工場を擁するまでに成長することになった。

この時期には単なる規模拡大のみならず、紙筒管を用いて作った紙のポットで苗を育てて移植するという甜菜の新たな栽培方法を開発普及させることで、甜菜の単位収量を第2次世界大戦直後の2t/haから昭和40年代には5t/haからへ増収を図ると共に、清水紙筒工場を建設してその生産にあたるなど事業の多角化と効率化も進められた。

また、製糖事業でも原材料を北海道産の甜菜のみに限定せず、下関精糖工場で他の原料による製糖事業を開始するなど本業周辺で多角化を進めた。

1963年(昭和38年)の粗糖の輸入自由化以降は以前の様な高収益は見込めなくなったものの、甜菜の作付面積が50,000haを超えると共に40t/haまで単位収量が増大したことを生かして1966年(昭和41年)には士別製糖所の設備増強をし、1970年(昭和45年)には1日に3,600tの原料処理能力を持つ芽室製糖工場の操業を開始するなど事業規模の拡大を図った。

その後1日に5,600tの原料処理能力へ芽室製糖工場の設備の増強を図ったのを機会に芽室製糖所に改称し、同じ原料の集荷地域内で並行して操業していた創業の地の帯広工場は1976年(昭和51年)に生産を停止することになった。

こうした設備集約の他にも、原材料の処理と精製工程を直結せず、原料から採れるビート糖液をタンクに貯留して、適宜精製工程に流す「濃厚汁製糖法」を採用するなど生産コストの削減にも取り組んで、事業を維持している。

操業を終了した帯広工場跡地には、1998年(平成10年)11月27日に(2代目)イトーヨーカドー帯広店を核とする商業施設が開業している。

また、2008年(平成20年)に日清丸紅飼料との合弁会社「とかち飼料」(本社広尾町)を設立するなど事業の一層の多角化が進められている。

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