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「伊達邦直移住記念碑」と「伊達邦直公上陸の地碑」



石狩川の河口を見に行こうと走っていてたまたま見つけました。
正直なところなぜこの地に?という場所にありました。

そもそも仙台藩の伊達家が北海道?って不思議に思う方もいらっしゃるでしょうが、簡単に言っちゃうと戊辰戦争に負けたからです。

「仙台藩関連」の過去記事あります。

「伊達邦直」は岩出山伊達家10代当主で、政宗の四男宗泰(むねやす)を祖とします。ちなみに亘理(わたり)伊達家「伊達邦成」の実の兄。

戊辰戦争で幕府側についた仙台藩は28万石に減封。邦直は1万46430石から65石に、邦成は2万3853石から58石と禄高を減らされてしまい家臣を養えなくなります。

その後二人は北海道へ渡り、「伊達邦成」は現在の伊達市、「伊達邦直」は当別町の開祖となります。

しかし、この兄弟はもちろん他の支藩らと「伊達本家」の間にはかなりの温度差があったようです。
北海道への移住を考え始めたのは1869(明治2)年のことで、家臣の吾妻謙か政府に開拓志願書を提出しますが、本家にバレて吾妻は謹慎処分。

志願書を受け石狩国札幌郡・空知郡の支配が政府より認可され、小野寺省八郎・氏家周六・遊佐次郎らを支配地受領のため北海道へ派遣します。

ところが地元の岩出山では北海道移住派と帰農派に意見が分かれてしまい、しかも小野寺らの派遣はイマイチの結果となり、邦直自身が渡道します。

1870(明治3)年、邦直は邦成らに便乗し函館から石狩を目指します。小樽で岩村通俊・開拓使判官から土地割渡状を交付され、空知郡ナイエ(現・奈井江町)を視察しました。しかし、石狩から40里もある道路すらない原野で、結論として開拓は無理と判断します。

その時の碑が奈井江にあります。

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この碑は奈井江川築堤工事にともない、昭和49年(1974)5月に建てられたものだそうです。

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その後、小樽での道路開削や沿岸拝借の嘆願は叶わなかったものの、厚田郡聚富(しっぷ=現・石狩市厚田区)を獲得しました。岩出山へ帰国し第1次移住団を募集。160人が参加し1871(明治4)年3月に岩出山を出発し、翌月に入植。

ところが聚富は砂地で、海からの強風もあり、まともに農耕など出来ない土地柄でした。

途方に暮れる移住団を助けたのが「小野寺省八郎」です。
↑に視察団として派遣された人物ですが、彼の兄が開拓使官吏の「小野寺周記」。

「当別の地が農耕開拓に有望」という情報を得、開拓使に当別拝借願を提出し受理されます。

この流れって結局、「邦直」が余計な事を言わなかったら「奈井江の祖」になっていたという事ですよね。
しかも、移住民たちは余計な苦労をしないで良かっただろうし、最終的には小野寺兄弟に救われたのですね。

さて、当別開拓の許可を受け第2回移民団を募集するため岩出山に戻りますが、帰農商派が勢力を増し182人の応募しか無かった。

そこで「邦直」は、在郷の帰農商派家臣のために三男の篤三郎と姉の2人を残すことを決定し、1879(明治12)年に第3回移民団の募集によれり210人が当別に移住することになりました。

邦直は1891(明治24)年に病死しますが、1892(明治25年)に邦直の開拓の功により孫の正人が男爵位を授かり、当別伊達氏は華族に列します。

個人的には、殿様の男爵より、せめて小野寺兄弟に勲章くらいはお受け取りいただきたいと思う。(笑)

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