石狩市の歴史



石狩市公式ホームページには…。

江戸時代になると松前藩は、アイヌと交易する区域をいくつかの「場所」とよぶ区域にわけ、この「場所」での交易を、一定の運上金と引き換えに場所請負人とよばれる商人にまかせるようになります。
場所請負人の代表格が石狩場所の村山家です。石狩だけでなくルルモッペ(留萌)、宗谷、クナシリ場所なども請け負い、持ち船は数十隻、一年間の儲けは6万両といわれ、日本屈指の豪商として知られました。最盛期には松前藩の参勤交代の費用まで出したといわれています。

弁天歴史通にのこる石狩弁天社は、元禄7年(1694年)に創建され、文化13年(1816年)に村山家が再建したもので、石狩場所の役人、松前や江戸の問屋が奉納した鳥居や鰐口、手水鉢などが残されており、村山家の繁栄とイシカリをめぐる交易のひろがりを伝えています。 (※道央で最も古い歴史を持つのが石狩弁天社とのこと…次回は。。。)

明治時代は、鮭漁の最盛期で、年間百万尾を越える水揚も珍しくありませんでした。そのため、サケの漁期には2,000人以上の出稼ぎ人が入り込み、遊郭や料理屋などの飲食店が十数軒も軒を連ね大いに賑わいました。

愛知県や石川県、高知県などから移住者が入り、花畔(ばんなぐろ)村、生振(おやふる)村、樽川(たるかわ)村の三つの村ができ、近代的な開拓が始まります。

石狩の平野部は砂地のため、最初は畑作のほか酪農がさかんにおこなわれました。水田は開拓民の悲願でしたが、砂地での水田耕作は難しく、さまざまな試行錯誤が繰り返された後、昭和3年(1928年)、花畔(ばんなぐろ)地区の農民たちによって本格的な水田耕作に成功し、市内の水田は飛躍的に増加しました。

昭和30年代には、札幌市の人口の急増から大規模団地として注目されるようになります。
昭和39年(1964年)、現在の花川南地区が「新札幌団地」として造成が開始されて以降、大規模住宅地として開発が進み、人口はめざましく増加しました。

昭和48年(1973年)から着工された石狩湾新港は、国際貿易拠点港として期待されています。
平成8年(1996年)9月1日に、石狩町は「石狩市」となり市制が施行され、着々と発展をとげています。
平成17年(2005年)10月1日に、石狩市・厚田村・浜益村が合併して、新「石狩市」が誕生しました。

※一部編集させていただきました。「石狩市年表」がありました。そこそこ詳しい内容です。


Wikipediaには…。

慶長年間に松前藩により「石狩場所」が設けられて以来、石狩は漁業や蝦夷(アイヌ)との交易の中心地として栄えた、また内陸部で切り出した木材を道外へ運ぶための木場も設けられるなど、江戸時代の石狩は石狩川流域地域との中継点として重要な役割を果たした。

1694年(元禄7年) 石狩弁天社が創建される。
1830年 - 1843年(天保年間) 浜益神社が創建される。
1848年(嘉永元年) 厚田神社が創建される。
1858年(安政5年) 浜益に庄内藩の陣屋が築かれた。同年、石狩には能量寺および石狩八幡神社が創建される。
1859年(安政6年) 金龍寺および法性寺が創建される。
1863年(文久3年) 曹源寺が創建される。
1869年 北海道11国86郡が置かれ、石狩国と石狩郡、厚田郡、浜益郡が置かれた。
1871年 花畔(ばんなぐろ)村、生振(おやふる)村が開村。
1882年 樽川村が開村。

1902年 下記合併により二級町村制施行。石狩郡の石狩川河口付近の10町と生振村が合併して石狩町。
・花畔村と樽川村が合併して花川村。
・厚田郡厚田村(あつた)、別狩村(べつかり)、小谷村(こたに)、押琴村(おしこと)、古潭村(こたん)、安瀬村(やそすけ)、濃昼村(ごきびる)が合併して厚田郡厚田村。
・浜益郡茂生村(もい)、群別村(くんべつ)が合併して浜益郡浜益村。

1907年 下記合併により一級町村制施行。石狩郡石狩町と石狩郡花川村が合併して石狩郡石狩町。
・厚田郡厚田村と厚田郡望来村(もうらい)が合併して厚田郡厚田村。
・浜益郡浜益村と浜益郡黄金村(こがね)が合併して浜益郡浜益村。

1975年 石狩町の一部(石狩湾新港地区、現・銭函4 - 5丁目)を小樽市へ割譲。
1995年 未定となっていた石狩町北東部の当別町との境界線を確定。
1996年 石狩町が市制施行、石狩市。
2005年 石狩市が厚田郡厚田村、浜益郡浜益村を編入、両郡消滅。
※一部編集。


ま~いつもの事ですけど、上っ面をなぞっただけで歴史を語るなって感じですけど、場所請負人の石狩場所「村山家」が儲けた儲けた日本屈指の豪商だなんて書かれるとチョット待った!って感じになります。

労働力の多くはアイヌの民であったことなんて少しも書いてありません。
「石狩場所」は諸説ありますが、「イシカリ十三場所」として石狩川水系の広範囲に渡る地域で交易がおこなわれました。
現石狩市の歴史としては、「トクヒラ(石狩川左岸河口付近)」のみになりますが、実は現旭川市との関わりもありました。

「松浦武四郎」という人物がいます。
当ブログの過去記事にも多く登場する人物ですが、「石狩日誌」には幕末期の蝦夷地の様子が残されています。※石狩川河口から旭川までの紀行文。その他の地域の日誌も多数あります。

松浦武四郎は現旭川市のような北海道の内陸部まで、道など無い時代に自分の目で足で自然の事や、アイヌの人口調査まで詳しく残しています。後に原田一典さんが「旭川研究」にまとめたものには、文化7年(1810年)イシカリ13場所に約3000人のアイヌが住んでいたものの、安政3年の人口は658人とあります。

私の拙いイメージですが、江戸時代以前から和人(日本人=松前藩)とアイヌの交易があった。
豊臣秀吉の朱印状で松前(=和人地)での交易権を許し、徳川家康の黒印状で蝦夷交易の独占権をみとめられた。しかし、その中には、蝦夷人(アイヌ人)に不法をいうことは堅く禁止する。

商人が場所を請負、労働力としてアイヌの民の力を借りる。
時と共に場所請負人らはエスカレートし、最後はほぼ強制労働になります。

男は主に肉体労働。
ピリカメノコ(綺麗なアイヌ女性)は番人(現場監督的な)の妾として…。もし既婚者であれば強制的に夫婦を別々の「場所」に離ればなれにさせられる。

さらに、和人の番人から天然痘や梅毒などの性病も…。

しばらくは、春から秋の出稼ぎ的な労働でそれなりに対価があったものの、これも番人が巧妙に搾取。
時代が変わり、蝦夷地から北海道になった明治2年。

労働力を増やすために当時の兵部省石狩役所は、現旭川地区のアイヌまでも石狩への強制移住の通告。
一方旭川では、雪が降る前には帰ってきた父や母、息子や娘が帰ってこない…。

そんな中、石狩へ向かったのがクーチンコロら三名のアイヌ人。
そんな話は受け入れられないと、同胞を連れて旭川へ帰ってきます。

クーチンコロは、松浦武四郎が安政4年の石狩川と天塩川の踏査、安政5年の上川から十勝に抜ける踏査でガイドをした人物です。
アイヌ民族は、コタン(集落)の俗に言う酋長として世襲制ではなく、風貌の優れていること・度胸のあること・雄弁であることを尊ぶ民族ですが、クーチンコロはそれらすべてを備えていた人物だそうです。

「石狩市の歴史」からは少し脱線しましたが、歴史ってどれくらい想像できるかだと思っています。

「クーチンコロら」は「トクヒラ」に向かったのか…。
12月に石狩川を下ったのか…。
帰りはどのようにして帰ったのか…。

歴史的な資料や各著書の確認はもちろんですが、それぞれのシチュエーションでどのような会話があったのか、帰ることを許されなかったアイヌの人々の様子はどうだったんだろう…。

個人的には映画のように、それらの資料が視覚として繋がってこそ初めて上っ面の歴史でなくなるような想いでいます。

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