アメリカから蒸気機関車を輸入する

安倍首相が訪米しトランプ新大統領と初会談をしてきましたが、インフラ投資としてアメリカに日本の新幹線を作るとか作らないとか…。

今回はその真逆で、当時鉄道の無かった北海道。
アメリカから蒸気機関車などを輸入したころのお話です。

 北海道博物館の「義經号」モデル

明治2年(1869)7月、明治政府は開拓使を設置。8月には蝦夷地を北海道と改称します。

黒田清隆は、明治3年(1870)5月に開拓次官となり、明治7年(1874)8月には、第三代開拓使長官となります。賛否両論ありますが、北海道の開拓の基礎を築いた功労者と言えます。

その黒田は、明治4年(1871)1月、留学生7名とともに渡米し駐米公使の森有礼(30歳)とともにグラント大統領(49歳)に開拓使の顧問となる人物の招聘を依頼し、当時の米国農務省長官ホーレス・ケプロン(67歳)との顧問契約を成立させました。

ケプロンは明治4年(1871))8月25日に、秘書エルドリッジ・科学技術師アンチセル・土木技師ワ―フィールドを伴い最初の開拓使お雇い外国人として来日します。アンチセル・ワーフィールドは開拓予備調査をし、ケプロン自身も3回にわたり道内各地の視察・調査をし「ケプロン報告書」と離日の際には「報文要略」を開拓使に提出しています。

その中に、幌内川上流には後の幌内炭鉱となる埋蔵量が多く有望な炭山があることが判明とあり、後に地質・測量・鉱山開発のアメリカ人技師ベンジャミン・スミス・ライマンを招き、炭田の開発計画を立案させることになります。

ライマンは明治6年(1873)の来日から約6年半の滞日中に、北海道各地の地質調査や日本各地で石炭・石油・地質調査にあたります。ライマンの計画では、幌内炭鉱の石炭の搬出を幌内から現在の幌向付近まで鉄道を敷設し、そこからは石狩川を利用し川舟により小樽港へ運び船に積み替えるというものでした。

ケプロンは幌内から室蘭間に鉄道を敷設し、室蘭港からの石炭積出しを計画しましたが、開拓使はライマンの計画は経費が少なくて済むということから、明治11年(1878)3月に承認します。同年、鉄道敷設・土木顧問としてジョセフ・クロフォードが来日し測量を開始しますが、ライマン案では敷設地には湿地が多く石狩川の冬季結氷などもあり、クロフォードは幌内太から小樽に鉄道を延長し、小樽港から石炭を積み出すよう提案します。年間を通じての安定輸送や桟橋から直接船積みができ、川舟へ積替える手間や石炭の減耗も防げることもあり、開拓使長官の黒田清隆は、幌内-小樽間の鉄道敷設を承認します。

鉄道開業にあたり、アメリカ・ピッツバーグのH.K.ポーター社から蒸気機関車2両、ハーラン・アンド・ホリングスワース社から2軸ボギー客車8両が輸入されます。

17021501.jpg ケプロンによる機関車の発注書

蒸気機関車は、1・2と付番され、1は「義經(義経)」2は「辨慶(弁慶)」と命名されました。

明治13年(1880) 1, 2(製造番号368, 369)
明治15年(1882) 3, 4(製造番号487, 488)
明治17年(1884) 5(製造番号643)
明治18年(1885) 6(製造番号672)
明治22年(1889) 9, 10(製造番号1009, 1010)

※1887年にはボールドウィン製の1C形テンダー機関車(7, 8。後の7170形)を輸入。
1889年の「9, 10」は、後にポーター製の「7, 8」と番号を交換(10, 9→7, 8)し、ポーター製を「1~8」にします。

17021502義経 「義經号」

17021503弁慶 「辨慶号」

西部劇に登場するようなアメリカの古典的スタイルの蒸気機関車ですね。
3は「比羅夫(ひらふ)」、4は「光圀(みつくに)」、5は「信廣(信広/のぶひろ)」、6は「しづか(静御前の静/しづか)」と命名されました。

明治15年(1882)開拓使は廃止され、鉄道と炭鉱は工部省の所管となります。11月13日には手宮-幌内間が全通し、翌年の9月17日には開業式が札幌で開催され、皇族や陸軍卿も列席し多くの市民も祝ったそうです。

しかし、幌内鉄道の経営は順調ではなく、6年度のうち収益のあったのたったの2年度のみで、それもそのはず石炭の輸送は無賃。(笑)

明治19年(1886)1月26日、鉄道と炭鉱は工部省から北海道庁に移管。しかし、道庁は予算も無く翌明治20年(1887)4月に炭砿鉄道事務所を廃止して炭鉱と鉄道を分離し、北海道鉄道事務所とします。

同年12月、4月まで炭砿鉄道事務所長だった村田堤が、幌内鉄道の運営を請け負い未成線の幾春別線を開業させたいとの出願します。

村田は黒田の腹心の一人で、何となく大人の事情がプンプンしますが、明治21年(1888)3月、北海道庁は村田の出願を認可し、村田は北有社(ほくゆうしゃ)という団体を設立し、幌内鉄道の運営を請け負うことになります。業績は上向いたそうですが、明治22年(1889)12月11日に北有社は北海道炭礦鉄道に事業譲渡し、官営幌内鉄道は消滅します。

■ 官営幌内鉄道の略年表

明治13年(1880)
1月 小樽市内の若竹第3隧道で建設工事着工。
9月28日 米国貨物船「ジェラルド・C・トベイ号」が手宮に入港し、鉄道機材荷揚げ。官営幌内鉄道のレール敷設を開始。
10月17日 米国貨物船「ジェラルド・C・トベイ号」が完成間近の手宮桟橋に接岸。
10月24日 手宮桟橋-熊碓第4隧道間 (4.8km) のレール敷設が完了し、「弁慶号」にて試運転。

17021504弁慶号試運転 ※北海道内における初の鉄道運転。

11月28日 手宮駅-開運町駅-札幌駅間 (22M25C≒35.9km) が仮開業。手宮駅・開運町駅・銭函駅・軽川駅が正式開業。朝里駅・琴似駅・札幌駅(仮停車場)を開設。

明治15年(1882)
1月 札幌仮停車場が札幌停車場(一般駅)として営業開始。
2月8日 北海道開拓使の廃止に伴い、鉄道と炭鉱が工部省に移管。
6月25日 札幌駅-江別駅間が仮開業。江別駅を開設(仮開業)。
11月13日 札幌駅-幌向太駅-幌内駅間が延伸開業、手宮駅-幌内駅間が全通。江別駅(一般駅)が正式開業。白石駅・幌向太駅・幌内太駅(一般駅)・幌内駅(貨物駅)を開設。
11月14日 幌内駅から手宮駅へ幌内炭砿の運炭開始。

明治19年(1886)
1月26日 鉄道と炭鉱が工部省から北海道庁に移管。

明治20年(1887)
4月 北海道庁の炭砿鉄道事務所が廃止され、炭鉱と鉄道が分離。

明治21年(1888)
4月1日 官営幌内鉄道が北有社に運輸業務を譲渡。
12月10日 幌内太駅-郁春別駅間が延伸開業。郁春別駅(一般駅)開設。

明治22年(1889)
5月28日 郁春別駅が幾春別駅に改称。
12月11日 北有社の事業譲渡に伴い、官営幌内鉄道が北海道炭礦鉄道に移管。手宮駅-幌内駅間と幌内太駅-幾春別駅間が北海道炭礦鉄道幌内線。

ま~ザックリですが、こんな感じです。
一方上記の機関車たちのその後ですが、北海道炭礦鉄道に引き継がれ、煙突のパイプ形への交換やカウキャッチャーの撤去などの改造が行なわれ、原形が損なわれてしまいます。

17021505.jpg

明治42年(1909)、鉄道院の車両称号規程が制定されて、7100形の7100~7107に改番となりますが、車両個別の変遷は…。

大正6年(1917) 7106が廃車後、日本製鋼所室蘭製作所に売却。

大正11年(1922) 7103が廃車。
※7101を「義經」と推定し東京に新設の鉄道博物館(のちの交通博物館)に保存決定。

大正12年(1923) 7100, 7102, 7104, 7105, 7107が廃車。
※7100, 7102, 7107は北海道建設事務所へ。
※8月、7101は移送されるが9月1日に発生した関東大震災により足止め、その後黒磯駅構内の機関庫に10年以上も保管。

大正14年(1925) 7104, 7105が梅鉢鐵工所(後の帝國車輛工業)に譲渡され、後に高知鉄道(後の土佐電気鉄道安芸線)の建設用に譲渡され工事完成後に解体。

さて、ここからは保存についてのお話です。

北海道では2号機関車である「辨慶」を札幌で保存しようということになり、札幌鉄道局工作課が銘板を調査しました。ところが謎の部分が多いのです。(7105は銘板が失われていたため調査不能)

文字の説明だと判り難いので調査結果は↓のようにしてみました。2号機関車「義經」は製造番号が「369」で「7101」だという意味です。

2「辨慶」 369 7101
3「比羅夫」487 7103
4「光圀」 488 7104
5「信広」 643 7102
6「しづか」 672 7106
9→7 1009 7107
10→8 1010 7100
7105 調査不能

この結果を見ると1号機関車の「義經」がないのですが、ということは銘板の無かった「7105」が製造番号「368」になりますよね。ところが工作課では7101を「義經」、7105を「信廣」と断定してしまいます。
また7102は「辨慶」としたものの、製造年が合致しないため、7106を「しづか」として保存することに決めました。

台枠かボイラーかという論争があります。ボイラーは消耗部品だから台枠が重要であるという考え方です。たしかにそうですが7100型の銘板はボイラーについていたり、刻印が発見されたり…。そこら辺が複雑で調査の混乱を招いたのかもしれません。

最終的には3台の7100型が復元されます。

昭和11年(1936)、7101は大宮工場で「義經」として復元されることになりますが、鉄道ファンから「7101が辨慶」で、「7105が義經」の指摘があり、最終的には「7101」を「辨慶」として復元することになりました。

昭和15年(1940)、復元が完成し鉄道博物館に収蔵、静態保存。昭和33年(1958)に鉄道記念物に指定。

昭和25年(1950) 北海道庁建設局に譲渡されていた7100・7102は、用途廃止となり苗穂工場へ。
7100は11月の北海道鉄道開通70周年記念展に整備の上展示。

昭和27年(1952) 鉄道開通80周年の年。鷹取工場では「義經」を復元することになり、7105は約4ヶ月で動態復元されました。苗穂工場の7102は解体。

9月、日本製鋼所室蘭製作所で日鋼9号機として不要になっていた7106が国鉄に引き渡され、苗穂工場で7100の部品を流用して10月に「しづか」の復元を完成。7100は解体。

復元された「義經」と「しづか」は東京に送られ、10月14日の鉄道記念日に原宿駅の宮廷ホームで揃って展示され、その後「義經」は鷹取工場、「しづか」は苗穂工場に保管。

昭和37年(1962)、「しづか」は小樽市手宮の北海道鉄道記念館(現在の小樽市総合博物館)に移され、翌年には2両揃って準鉄道記念物に指定。「義經」は平成16年(2004)、「しづか」は平成22年(2010)に鉄道記念物になりました。

17021506.jpg 7200型

明治27年(1890)から明治30年(1897)までの間に5回にわたって計25両が輸入されたポールドウィン製の1C形テンダ機関車、後の「7200型」。彼らに主役を奪われた「7100型」たちは、明治45年(1912)に北海道建設事務所に借し渡され、軽い軸重を生かし現在の宗谷線・留萌線・名寄線・根室線など新線建設の資材を運ぶ建設用機関車となりました。7100たちはレールや資材を牽引して旭川に何度も来ていたことでしょう。

17021507明治31年 明治31年の旭川駅

17021508明治37年 明治37年の旭川駅

製造から130年以上の時を経て、「義経号」「弁慶号」「しづか号」は復活し保存されています。

義經model_7100-7105 京都鉄道博物館

train_img01_03.png 鉄道博物館

siduka.jpg 小樽市総合博物館

京都や埼玉は無理でも、せめて小樽。
今年こそ行こうと思います。(笑)

関連記事
スポンサーサイト

COMMENT 0