平取 旧マンロー邸 「ニール・ゴードン・マンロー」



旧マンロー邸 | 平取町オフィシャルサイト
英国人考古学・人類学者のニール・ゴードン・マンロー博士は、アイヌの生活風俗研究のために二風谷に移住し、研究のかたわら医者としての奉仕活動に生涯を捧げた人です。昭和17年の永眠後、住宅兼病院であったここは記念館として保存され、現在は北海道大学へ寄贈され、北方文化の研究に活用されています。

【所在地】平取町字ニ風谷 (びらとりちょう にぶたに)

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現在では北海道の田舎町でも外国人を見かけることはありますが…。

明治時代に帰化し日本人妻を得て、アイヌ保護に尽力し北海道の土となったスコットランド人の医師がいました。
その人物が「ニール・ゴードン・マンロー」です。

1863年6月16日。北海に面したスコットランドの都市ダンディーで、外科医の父ロバート、母マーガレットの長男として生まれました。エディンバラ大在学中の1882年に「種の起源」で有名なダーウィンが出版から20年の時を経て死去しますが、1866年にモースが大森貝塚を発見したり、シーボルトの次男も日本で発掘調査を行うなどマンローは考古学に興味を持ちます。

1888年に医学士と外科修士の学位をとりエディンバラ大を卒業し、当時大英帝国の植民地であったインドや香港を往復する貨客船の船医として働き始めますが、医師は仕事として、その実は考古学への想いが強かったのかもしれません。

事実、インドで英国の発掘隊たちが訪れた遺跡などを一人で探索していたようですが体調を崩し、1891年(明治24年)27歳で来日し、横浜の山手地区にある外国人専用のゼネラルホスピタルに入院します。

その後の足取りは諸説ありますが、1895年(明治28)に19歳のドイツ人「アデル・マリー・ジョセフィン・レッツ」と結婚します。アデルは横浜の貿易商「レッツ商会」の令嬢で、翌年長男のロバートが生まれています。

1898年には、北海道でキリスト教の伝導に努めるイングランド人宣教師、ジョン・バチェラー(John Batchelor)の案内で北海道旅行をしていますが、その際にアイヌ文化に触れアイヌ文様と縄文土器の模様の共通点に注目し、アイヌは縄文人の子孫なのではないかと仮説を立てます。

1905年には、「横浜三ツ沢貝塚」で日本初の縦穴住居跡、土器、石器、アイヌ人の特徴を有する原人5体の人骨を発掘します。

一方私生活では、発掘に熱中し金遣いの荒いマンローと妻アデルの間では夫婦喧嘩が絶えなかったそうです。そんな時期に秘書兼通訳である高畠トクとの出会いがありました。

高畠トクは久留米柳川藩江戸詰家老の次女で、「アヤメ」という名の女の子が誕生していますが、英国ヘ帰国し試験を受けて博士号を取得したマンローは、なんとフランス人女性を連れて再来日(すぐ送り返したそうですが…)し高畠トクとは協議離婚。

1914年、51歳のマンローは、横浜のスイス貿易商の娘で28歳のアデル・ファヴルブラント(Adele Favre‐ Brandt)と結婚します。最初の妻と同じ資産家の娘で名前も同じアデル。財産目当てっぽいですが…。(笑)

この頃から北海道各地を訪れて、釧路や白老アイヌたちと親交を深め、また研究の合間に無料で彼らの診察を始めます。

1923(大正12)年。心臓に持病のあった82歳の義父ジェームズが8月7日が急逝します。
「関東大震災」の際には怪我人の手当や防疫に奔走したマンローですが、横浜の住居を失い軽井沢での新生活をスタートさせますが経済難に陥ります。義父ジェームズの援助の中で開設していた「軽井沢サナトリウム」も大幅な赤字。そんな中、院長のマンローはサナトリウムの婦長「木村チヨ」と関係を持ちます。

妻のアデルは精神的に不安定になり、マンローはフロイト博士の元で精神治療を受けさせるということで、アデルは日本を離れその後二人が会うことはありませんでした。

1931年(昭和6)木村チヨを連れ北海道の二風谷(ニブタニ)へと移住し、1933年には自宅が完成し診療の一方アイヌ民具などのコレクションや、記録映像も多く残したようです。

私生活ではアデルとの離婚が決まり、木村チヨと結婚したのは1937(昭和12)年6月30日、マンロー74歳。
同年、ロックフェラーの研究助成金は終了し、コタンでの無料診療を続けるためにマンロー夫妻は毎年3ヵ月間だけ軽井沢を訪れ、裕福な患者の治療をし1年分の生活費を稼いでいたそうですが、体調に異変を感じ1941(昭和16)5月に札幌の北大医学部で診察を受け、腎臓と前立腺の癌と診断されます。

マンローは最後までアイヌの人々の世話をすると決意したそうですが、1942(昭和17)年4月11日、二風谷の自宅でマンローは息をひきとりました。享年78歳。大勢のコタンの人々とチヨに見守られての最期だったそうです。

平取での生活は9年でしたが、コタンの人々と同様の葬式をしてくれるよう遺言していたそうです。

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毎年6月16日マンローの誕生日には「マンロー先生の遺徳を偲ぶ会」が開かれているそうです。

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