日本とロシア(旧ソ連) ~三船殉難事件~



三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)とは、第二次世界大戦末期(日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後)の1945年(昭和20年)8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件を指す。@Wikipedia

過去記事の「インディギルカ号と三船殉難事件」に大まかな流れを書いてありますが、今回はもう少し生々しい部分に迫りたいと思います。

1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国に対して発された「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言がありました。

正式には日本への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)で、他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本は、広島と長崎に原爆を落とされ1945年8月14日に宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告し、1945年9月2日に調印・即時発効(降伏文書)に至って第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)が終結しました。

これが「ポツダム宣言」ですが、ソ連は日本との1941年4月25日から5年満期の日ソ中立条約の有効期間であるため署名はしていません。

1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇による玉音放送があり、終戦記念日は8月15日。多くの国民がそう信じて疑うことも無いと思います。

このポツダム宣言を受諾し無条件降伏したことにより、イギリス軍やアメリカ軍は即座に戦闘行為を停止したものの、そんなどさくさに紛れ、8月9日にソ連が突如として連合国側に参加のうえ日本に対し宣戦布告します。

日ソ両国間には、昭和16年4月に調印された「日ソ中立条約」(相互不可侵条約)が発効中であるにもかかわらず、一方的に破棄し当時の日本領であった樺太や千島列島に侵攻します。

何となくソ連らしい行動だと思ってしまいますが、連合国としての対応はどうだったのかが疑問です。
実は米ソ間に原因があったのではないかという疑惑のお話です。

昭和20年2月にソ連の指導者スターリンとアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの間で「ヤルタ協定」が交わされますが、ルーズベルトは戦争の早期終結を図るために、ソ連に対日参戦しない見返りとして、ソ連の要求する日露戦争で失った「南樺太の領有権」「満州・朝鮮の権益」「千島列島の領有権」などを容認すると非公式合意。

ところが、ルーズベルトが急死してしまい、後任は反共産主義のトルーマン大統領。スターリンとしては密約の反故を危惧して、日本が降伏する前に参戦して既成事実として各地を早急に実効支配してしまおうと動きます。

では、連合国側の親分であるアメリカの対応はどうだったのか。アメリカとしてはソ連は敵対勢力ではあるものの、前大統領とスターリンの密約があり、さらに連合国という名目上ソ連は仲間。アメリカが止めなさいというのもなんですし、ヤルタ協定対象地域内だから「ま~いいか」と事実上の黙認。

そうなると一番困るのは、戦争が終わったのに侵攻を続けるソ連軍に攻められる各地の日本人です。
たとえば日露戦争後のポーツマス条約(明治38年)で正式に日本の領土となった「南樺太」。当時の南樺太は大企業により炭鉱や製紙工場などが建設され、鉄道などのインフラ整備も進み、1944年(昭和19年)2月22日の人口調査では391,825人が暮らしていました。

1945年8月9日に対日参戦したソ連は、8月11日に南樺太の占領作戦を開始します。北樺太から陸上侵攻する歩兵師団・歩兵旅団・戦車旅団各1個が攻撃の中心で、補助攻勢として北太平洋艦隊と歩兵旅団1個による上陸作戦を実施。日本軍は、歩兵師団1個を中心に応戦します。

終戦後も自衛戦闘を命じられた日本軍との戦闘が続き、樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、上陸作戦による戦線拡大もあり8月23日頃には日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊占領で樺太での戦い(日本本土最後の戦い)は終わります。

日本軍の損害は、戦死・行方不明2,000人、ソ連軍の記録では日本兵18,302人が捕虜となりシベリア抑留による強制労働。民間人の被害は軍人を上回り3,700人に及び、厚生労働省の資料では樺太・千島及び周辺海域での大戦全期間の戦没者数は18,900人とされています。

ソ連軍は、次に北海道及び北方四島への上陸作戦のために南樺太の前進基地としての整備を進め、8月25日までに、計15隻の客船を中心とした3回の護送船団で3個師団が真岡へ送られますが、8月18日にアメリカ大統領トルーマンが北海道占領を認めない旨の書簡をスターリンに送り、8月22日以降に中止命令が出されますが、北方四島の占領は大泊から出航した第113狙撃旅団などによって8月28日から9月3日に行われ、北方四島やその他の千島列島で捕虜となった日本兵も樺太を経由してシベリアへ送られます。


さて、いつソ連軍が進攻してくるか判らない、陸からなのか海からなのか…。ロシア軍は日本人の金品を略奪し、婦女子の身体をもてあそび殺す…。本当なのか嘘なのかそんな噂が流れる。実際にソ連兵に捕えられることを恐れて自殺する事件もありました。郵便局の女性職員12人が集団自決を図った真岡郵便電信局事件や、大平炭鉱病院の看護婦23人が集団自決(6人死亡)しています。

樺太庁長官主催で樺太鉄道局と船舶運営会が加わった緊急輸送協議会が開かれたものの、輸送計画が決まり各市町村へ通達されたのはソ連軍参戦から3日経った12日になってからで、計画では本土避難対象者は65歳以上の男性と41歳以上の女性、14歳以下の男女とされ、16万人を15日間で移送することを目標としました。

つまりこの計画は、そもそも全員移送できなくて、しかも65歳以上のお父さんと41歳以上のお母さんで14歳以下の子供が居る家庭以外は家族がバラバラになるという事です。良くてもお母さんと下の子供を何人か連れて行けるという事になります。死は辛いものですが生き別れもまた辛かったことでしょう。

大泊を主たる乗船地として稚泊連絡船「宗谷丸」や海軍特設砲艦「第二号新興丸」など艦船15隻、本斗から稚斗連絡船「樺太丸」と小型艇30隻、真岡からも貨客船「大宝丸」などを運航することが決定。陸上では乗船地に向けた疎開列車編成とトラック輸送が行われました。

13日夕に大泊を出港した「宗谷丸」を皮切りに、16日に真岡、18日には本斗からも引揚船が出始めた。本斗には貨物船「能登呂丸」や海防艦が追加投入。定員の数倍ずつ乗船させ急ピッチで海上輸送が進められたが、真岡は20日にソ連軍に占領されて使用不能となり、本斗も危険なため運用断念。8月23日にソ連軍から島外への移動禁止が通達され、同日夜に緊急脱出した「宗谷丸」「春日丸」で終了。

結果は、目標の約半数76,000人が島外への緊急疎開。その後の自力脱出者約24,000人を合わせても、南樺太住民の1/4以下のみが避難できたことになります。ちなみに第1便の「宗谷丸」は乗船定員を割り込み、軍や官庁の関係者が多くを占めていたそうですが、お役人の計画通りだった?

樺太各地から殺到した数万の人々でごった返していた大泊港。どのように乗船順位を付けたのかは謎ですが、乗船できた人々はとりあえず少しは安心できたのかもしれません。しかし、稚内までは約160㎞約8時間の航行です。いつソ連軍が船を狙ってくるのか判りませんから稚内港へ着いた時はホッと一息つけたでしょう。

ところが稚内からの移動手段が難しい。単純計算では1日に8000人程度ですから現代では鉄路だけでも何とかなりそうですが、当時は無理だったようで一部の船は小樽行きとしました。もちろん多くの人々は小樽を希望し、もはや日本国内という気持ちで乗船していたと思います。

しかし、ここでの選択が後の運命の分かれ道になります。


悲劇その1 「小笠原丸沈没」

1945年(昭和20年)8月20日、引揚船の1隻である逓信省の海底ケーブル敷設船小笠原丸が引揚者1,500名ほどを乗せて大泊から稚内へ。日本に到着した事や機雷の危険がある事から下船するよう勧めがあり約900名ほどが下船、列車の混雑などを理由に約600名の乗客と約100名の船員・軍人を乗せて小樽を目指し出航。

8月22日午前4時20分頃、増毛沖の海上でソ連軍潜水艦の魚雷により撃沈。乗員乗客638名が死亡、生存者は61名。

ほとんどの乗船者は脱出する事も出来ずに船と共に沈んでしまいますが、数少ない生存者たちは海上の漂流物につかまっていました。そこへ潜水艦が浮上し、なんと機銃掃射で次々と撃ち殺しはじめたのです。

その後、増毛の海岸に死体が漂着し、その中には多くの子供たちの変わり果てた姿もあったそうです。


悲劇その2 「第二号新興丸大破」

8月22日午前5時13分頃、大泊からの引揚者約3,400名を乗せ小樽へ向っていた特設砲艦第二号新興丸(12センチ砲2門と25mm対空機銃の装備あり)が留萌沖北西33キロの海上で、ソ連軍の潜水艦からの魚雷を右舷船倉にうけ、縦約5m・横約10mの穴が空き、直後に浮上した2隻の潜水艦により銃撃を受け応戦。

第二号新興丸は船体に大きな損害を受けつつも自力で航行し留萌港に入港。船内で確認された遺体は229体、行方不明者も含めると400名近くが犠牲。

新型エンジンや砲門を搭載していた船ですが、魚雷に気付き回避行動を取るものの右舷側面の船倉付近に被弾。更に2隻の潜水艦が浮上し銃撃を加えてきたので応戦。敵艦は再び潜航し沈没は免れ、最寄りの留萌港南港へ着岸。

魚雷の直撃を受けた第2船倉にいた乗船者はほぼ全員、甲板上にいた多くの人々は銃撃により命を落とし、その惨状はこの世のものとは思えないほどだったと言います。

子供の頃に留萌港でこの船を見た方の手記があります。
「…マストの線にぶら下っている手足・首・内臓・ボロボロになった衣類・魚雷命中により船倉から吹き上がったのだろう、特に船首側のマストに沢山の肉片が付着していた。男・女・子供の区別など解らない…。」


悲劇その3 「泰東丸沈没」

8月22日午前9時52分、大泊からの引揚者を乗せて小樽へ向っていた貨物船泰東丸(880トン)が北海道留萌小平町沖西方25キロの海上において、浮上した国籍不明の潜水艦の砲撃を受ける。戦時国際法に則り白旗を掲げるが、潜水艦は無視し砲撃を続行し沈没、乗員乗客約780名中、667名が死亡。

鬼鹿村(現・小平町鬼鹿)沖を航行中、海上に漂う大量の木片や乗船者の携帯品などを発見し甲板上は騒然となります。
しばらく経った午前9時50分頃、突然右舷前方に潜水艦が浮上、泰東丸に向かって砲撃を始めました。

泰東丸は停船し、戦時国際法に則り「白旗」を掲げ、”抵抗の意志がない”旨を相手に伝えますが、潜水艦はそれを無視しさらに無抵抗の船に激しい砲撃を加えます。泰東丸はやがて右に傾き沈没。

生存者は120名、海上を漂流している所を稚内から大湊へ向かい航行中だった海軍敷設艦に発見・救助されます。


防衛省の『戦史叢書』によれば死者・行方不明者は1658名とされているそうですが諸説あるようです。

今回は「三船殉難事件」としてですが、ソ連軍による事件としては他にもあります。
1945年(昭和20年)8月22日、樺太最南端の西能登呂岬南方海上で、引揚者輸送回航中の大阪商船の貨物船「能登呂丸」(1,100トン)がソ連の航空機の雷撃を受け沈没。8月20日に「東春丸」が北海道方面で潜水艦の雷撃で沈没、8月24日に「大地丸」が朝鮮半島沿岸で空襲により沈没。多くの日本人は知らない戦後のソ連による武力の実行があります。

さてその後の「三船」関連としては…。

・1974年(昭和49年)から5回にわたり厚生省が海上自衛隊に依頼して泰東丸の捜索を行うが、成果は無く捜索は断念。
・1981年(昭和56年)に地元の漁船が泰東丸らしい沈船を発見。
・1982年(昭和57年)と1983年(昭和58年)の社団法人全国樺太連盟の調査で、バッテリー、銃弾、茶碗などの泰東丸のものと思われる遺品が引き上げられる。
・1983年(昭和58年)参議院において「泰東丸の捜索と遺骨収集の促進に関する質問主意書」が提出。

「今年の7月から8月にかけて、全国樺太連盟は、泰東丸が沈没したとみられる北海道留萌沖で独自の調査を行った。その結果、泰東丸と思われる船体を発見した。船名の確認までには至らなかったが、機銃弾、時計、バッテリーなど数多くの貴重な遺物を陸上に引きあげ、検討したところ泰東丸であることにほぼ間違いないことを裏づけた」として政府に同船の捜索と遺骨収集を求めた。

当時の中曽根康弘総理大臣は…。

「泰東丸の捜索に関しては、同船が沈没した海域の沈没船について、1977年(昭和52年)7月に厚生省が防衛庁及び地元関係機関の協力を得て綿密な潜水捜索を実施したが、泰東丸であるとの確認ができなかったという経緯がある。現段階では国の事業として再捜索を行うこと、また、民間団体が自主的に行つた捜索事業に国が資金援助することは困難である」としたうえで「沈没船が泰東丸であるとの確認ができれば、今後、残存遺骨の有無の調査等の対策を検討」すると答弁。

・1984年(昭和59年)8月5日から北海道や全国樺太連盟の協力を得て厚生省が再調査を行ったが、遺体は発見されず9月28日に調査を打ち切る。

それにしてもソ連軍による北海道上陸作戦。
ソ連参謀本部が対日進攻作戦計画を策定しはじめたのが1945年5月からで完成させたのが7月30日、8月9日には不可侵条約を破棄して対日宣戦布告し満洲に進攻します。8月11日には南樺太進攻、日本がポツダム宣言受諾を通告し戦闘停止した後の8月16日から9月3日にかけては千島から北方4島に侵攻して占領します。

ソ連極東軍司令官ヴァシレフスキーのスターリン宛電文によると、8月19日時点で北海道進攻作戦が作戦準備に入っていたことが明らかになっているそうです。

そんな中8月18日に、米大統領トルーマンがスターリンに北海道は米軍に降伏することになったと通告し、スターリンは激怒。
なぜそうなったかというと、7月16日にアメリカは世界初の核実験が成功し日本に対する原爆使用が決定され、17日からはポツダム会談が始まりトルーマンは24日にソ連に原爆の実用化を伝えての26日にポツダム宣言発表。

つまり、アメリカとしては原爆による日本への圧力に加え、ソ連には威力誇示することにより停戦した日本に対してまだ正式に降伏していないからという理由で侵攻を続けるソ連に圧力をかけた事になります。

8月18日にトルーマンが北海道占領を認めない旨の書簡をスターリンに送り、8月22日以降に中止命令が出されます。スターリンは北海道侵攻作戦を中止、23日には日本人捕虜50万人の抑留を極東ソ連軍に指示。

北海道はアメリカにより守られたのか。何とも子供じみたやり取りのようにも思いますが、その代償として多くの長期に渡るシベリア抑留の悲劇が生まれたことは歴史の事実です。

ソ連は冬に凍らない港が欲しい。そのための北海道。
それをアメリカによって阻止された。トルーマンの書簡を18日に知ったとして中止命令までの4日間の謎。

その間に多くの日本人、しかも民間人への無差別殺人が行われた事実。
さらに謎なのは、北海道侵攻作戦が進行しているなら潜水艦は潜水しているわけで、潜水艦が浮上してまで船や人を撃ちまくった事実。

個人的な見解ですが「北海道は奪れなくなった。全弾撃ちまくってこい!」そんな想いが「スターリンの激怒」としてあったのではないでしょうか。

そうでなければ連合国として戦後となったのに、樺太から日本への移送船と認識していたであろう船に魚雷を撃ち、さらに浮上して船上で逃げ惑う人々への機銃掃射。白旗を揚げ停船している船や、海上に浮かぶ人間にすら撃ちまくることが同じ人間としてできるのでしょうか。

現代の日本人の感覚では無理かもしれませんが、当時のロシア人が楽しんで人殺しをしたかどうかは判りませんが、「L-12潜水艦」の乗員には勲章が与えられています。ソ連としてはよくやったという事なのでしょう。

ソ連と現ロシアは違うけれど、基本的なロシア人の感覚って過去の歴史をみても大なり小なり同じような流れを感じることがあります。こんな悲惨な過去が北海道の日本海であったことを頭の中の隅っこにでも置いてほしいと願います…。

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「道の駅おびら鰊番屋」に「歴史文化保存展示ホール」があり「三船殉難事件」の資料が展示されています。

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