旭川市 史跡等表示板 錦町5遺跡

今回は、昔の旭川にはたくさんの鮭が遡上していたというお話です。
それを証明する遺跡があります。

旭川市の ホームページ には…

・錦町5遺跡
昭和57年から62年にかけて、土地区画整理事業のため発掘調査が行われ、平安時代の竪穴住居跡6軒、鍛治の跡、川の跡などが発見された。出土品は、擦文土器、紡錘車、須恵器、ふいごの羽口、鉄器、木器、魚骨など貴重な発見があり、川跡から出土した木の斧の柄は、旭川市指定文化財になっている。

…とあります。

昨年の夏に旭川博物館へ行った時に撮ったものですが、「上川盆地のサケ遡上河川 産卵場・遺跡分布」という展示があります。

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ここ数年は地元のNPOなどの成果として、再びサケが旭川まで溯上するようになりましたが、当時のサケの遡上がどれくらいだったのかは判りません。なんせ蝦夷地の内陸部。しかも平安時代の記録なんてありません。(笑)

詳しい文献としてはやはり松浦武四郎のものが最も古いものになりますが、たぶんサケの遡上は平安時代とそれほど多くは変わっていないと想像できます。

しかし江戸末期と現代で大きく変わっていることがあります。それは河川の流れです。
明治以降、日本人が開拓の名のもとに上川盆地に続々とやってきますが、当時の旭川はほぼ原始河川ですから、大雨が降ると氾濫するのが当たり前で、昭和になっても牛朱別川など大雨の時は川の流れが逆流する地域もあったようです。

過去に大きな水害が幾度もありましたが、現代は護岸工事や新川や放水路などの治水対策も進み、昨年の台風でも氾濫することはありませんでした。

さて、本題の遺跡ですが…。

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土地勘が無いと、とても理解しがたいと思いますが、現在の川筋とかなり違います。

そもそも、縄文時代→弥生時代というのが日本の歴史って感じですが、北海道に弥生時代というものは存在しません。

縄文→続縄文→擦文→アイヌ文化。
諸説ありますが、個人的にはこの流れだろうと思っています。

つまり、川の段丘より高い位置に住んでいた縄文の人々が、時を下るにつけアイヌの民は川に近付いたイメージです。

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この地図を見ると想像しやすいかと思いますが、河川の切り替えや埋め立ての歴史が判ると思います。

昔の川の流れに取り残された俗に言う三日月湖もありますが、特筆すべきは突然川が出現している地域がありますね。
地図では「第七師団」、現在の陸上自衛隊の駐屯地になりますが、これは何かと言いますと上流からの川では無く、湧水由来つまり地下からの湧き水からの川…。

サケの産卵場の川底には砂利があり、さらに湧水のあることが必要不可欠なのです。
この遺跡群は、まさに今は無き川筋に点在していたものになります。

さて、あなたが小川程度の川でサケを捕るとしてどうしますか?
当時の狩猟方法のジオラマが展示されています。

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当時の人々は、柵(さく=:テシ)や、簗(やな=:ウライ)を仕掛けたり、また鈷(もり=:マレク)で突いたり、たも網ですくうなどの漁法だったようです。

現在では、河川においてのサケ・マスはもちろん、ヤマメも禁漁期間が設けられていますが、法が無いとしてのdaydream的発想ですが…。

サケは卵を産んだメスはもちろん頑張ったオスたちも故郷の川でで死に至ります。
その遺骸は山の生き物、鳥たちも含め川の中の生物たちの未来へとつながりのです。

筋子がイクラになるのが自然界ではいつなのか、味はどうなのかは判りませんが、たぶん夥しい(おびただしい)数のホッチャレ(死を待つのみのサケ、あるいはその死骸)があるので、拾い集めて干してみたいと思います。

ま、現代の生物保護的な考えなんてまるで関係ない状況なら、何が一番美味いかという選定になるでしょうけれどね。(笑)

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