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知里 幸恵 vol.1

 死去する2ヶ月前、大正11年7月に滞在先の東京の金田一京助の自宅庭で撮影

知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903年(明治36年)6月8日 - 1922年(大正11年)9月18日)は、北海道登別市出身のアイヌ人女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ民族・アイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。

弟に言語学者でアイヌ人初の北海道大学教授となった知里真志保がおり、幸恵の『アイヌ神謡集』の出版以降、大正末期から昭和にかけて、新聞・雑誌などからはこの姉弟を世俗的表現ながらも「アイヌの天才姉弟」と評された。@Wikipedia(画像は加工してあります)

皆様は、「知里 幸恵」という人をご存知でしょうか。
今回はvol.1として、時代背景をお伝えしたいと思います。

明治36年6月8日の生まれですから、それ以前に明治政府のアイヌ人の漁業や狩猟の禁止や日本風氏名への強制改名、さらにアイヌ固有の習慣・風習禁止や日本語の使用などにより、アイヌ民族そのものの日本人への同化政策が行われていました。

・1871(明治4年) 開拓使(明治政府)により、アイヌの習慣である耳輪・入墨・家屋葬送が禁止される。日本語の使用を強制。戸籍法制定アイヌを「平民(旧土人)」に編入。

・1872(明治5年) 開拓使仮学校付属北海道土人学校設立。アイヌ民族を象徴する儀式の「イヨマンテ(熊送り)」禁止。

・1875(明治8年) 樺太千島交換条約により、108戸841人のカラフトアイヌを北海道に強制移住。

・1876(明治9年) 鹿狩規則を定め、アイヌの伝統猟法、仕掛け弓・毒矢の使用禁止。氏(苗字)を用いるように通達しアイヌの戸籍がほぼ完成する。

・1878(明治11年) アイヌの呼称を「旧土人」と統一。札幌郡内の河川で鮭漁禁止。

・1883(明治16年) 根室県で旧土人救済方法を実施、強制移住や農耕指導などを行う。鮭漁の禁止。

・1888(明治21年) イギリス人宣教師ジョン・バチェラー、幌別村(登別市)にアイヌ児童教育施設「愛隣学校」設立。

・1889(明治22年) 道内の鹿猟を全面禁止。北海道各地でアイヌの「保護地」への強制移住が起こる。

・1894(明治27年) 近文(旭川市)の、アイヌへの付与予定地を決定。

・1899(明治32年) 北海道旧土人保護法制定。(1万5千坪以内の土地を付与、教育・共有財産管理などを規定)。第二期、旭川近文アイヌ給与地問題発生。第七師団の旭川への設置に伴い近文アイヌの転出計画が持ち上り利権屋の暗躍。旭川のアイヌによる反対運動が展開、事件は中央政界の汚職問題へと発展し移転は阻止される。

・1900(明治33年) 近文のアイヌの給与予定地を大倉喜八郎らへの払い下げを決定するも反対運動により取り消される。

・1901(明治34年) 旧土人児童教育規程公布。1911までに全道に21の土人学校を開設する。

・1903(明治36年) 近文アイヌ給与地問題再燃、旭川の川村モノクテ、土地問題で道庁へ赴く。

略年表を作ってみましたがアイヌにとっては酷い時代でしょ。
現代の日本であなたが突然…。

メイクもネイルも禁止ですからね~。
日本語も話しちゃダメですし、名前も変えてもらいますよ~。
それから米・鳥豚牛肉は食べられなくなるし、引越ししていただきますので~。

そんな時代を体験した両親(父・高吉、母・ナミ)の娘として、1903年(明治36年)6月8日「知里 幸恵」は登別で誕生します。

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